大井玄:「痴呆老人」は何を見ているか

終末期医療に取り組む医師が、認知症高齢者やひきこもりの若者などの精神構造を、臨床的知見から読み解いたもの。

この類のはなしは気になるところで、それは自分が高齢者施設を設計していたとき、例えば浴室はどのようであれば良いのか、認知症を発症した利用者の感じ方がどのようであるのか、わからないもどかしさがあったからです。いまは知的・精神障害者施設の研究を始めたのだけれど、やはり彼ら、彼女らがどのように環境を感じ取っているのか、知るすべがないところに本書に出会って、これはなにか手がかりが得られるのではないかと思いました。

全体的には、ある意味面白く、示唆にも富んだ内容でした。例えば杉並と沖縄での高齢者を比べた場合、沖縄では知的程度は明らかに低下しているものの、杉並に比べていわゆる「問題行動」が少ないなどの事例が示されています。これは、周囲が当事者をどのように扱うかという、いわば環境的な要素が発現する行動に影響を与えると解釈されています。また、自己とは記憶であり、その記憶が失われて行くと「不安」が募り問題行動が発生するなど、うなずける指摘もありました。

しかし、読みながら大きな違和感を感じたこともまた確かです。なんというか、理論的な枠組みから臨床的な知見を導き出すという内容ではなく、むしろ臨床的な知見から独自の理論を引き出し、それを他の既往の理論との整合性によって妥当であると判断づけているような、なにか著者の「統一的な理論」への欲望を、強く感じてしまいました。

また、その参照されている議論が、「ゲーム脳」だったり「多重人格」であったり、なんだかあやしいものばかりなんですよね。第4章では仏教の「アラヤー識」などが突然参照され、びっくりしてしまいました。まあ、正しいかどうかは判断できないし、そのような議論の展開もあり得るとは思うのだけれど、「認知症」という、絶壁の他者性をどのようにのりこえるのか、彼ら彼女らの認知の世界をどうやってのぞき込むことができるのかという問題には、残念ながら役に立たない議論のように思えました。

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)