柳広司:饗宴 ソクラテス最後の事件

最近これといって読みたい本もないので、適当に目についた本を購入して読んでみたのですが、2冊続けて途中でつまらくなって投げ出してしまいました。これはいかんとも思うし、やはりそろそろちゃんとした文章を読みたくなったので、以前読んだことはあるのだけれど、東京創元社で文庫化された本書を購入しました。

本書はソクラテスを探偵、友人のクリトンをいわゆるワトソン役というか、語り手として進行する、古代ギリシャを舞台とした事件を扱ったものであります。なんとも古めかしいというか、正直つまらなそうに思え、なかなか手にも取らなかった後、「贋作「坊っちゃん」殺人事件」の素晴らしさに驚き、慌てて読んだ記憶があります。以前の記憶どおり、しっかりとした物語の構成、極めて頑強な語りの精度にもかかわらず、読み手を前へ前へと導く力強さを感じさせ、とても幸福な時間を過ごすことができました。

しかし、柳氏はなぜ小説を書くのだろうか、と不思議になってしまう。本書は不可思議な連続「殺人事件」を主題とするいわゆる推理小説の範疇に属する物語だと思いますが、ここで語られるのは、アテナイの没落とともに揺れ動く人心のさまであり、またそのような不安定な時期に「事実」を認定することの難しさ、またそもそも「事実」が語り手によっていかようにも成立し得る、という「物語」の本質に関わる事柄のように思います。展開される議論は、ゼノンのパラドックスであったり、死の不可知性とその可能性であったり、ピュタゴラスの神学であったり。。

というと救いようもなく堅苦しいお話しに思えるのだけれど、それがまったくそうでないところが柳氏のすさまじいところだと感じます。ソクラテスとクリトンの、いわば弁証法的な世界は老婆の「それがどうしたっていうんだ」という叫びに打ち消され、すべては狂騒的に、いわゆる推理小説の心地よい枠組みに回収されて行く。この二重性は、不思議と柳氏のこだわる「事実」や「現実」の多重性、言語の持つ非対称な関係性に接続されているように、感じるのはおそらく考えすぎではない気がします。だってこの物語の語り自体が、1891年に発見されたパピルスに記された、おそらく構成の捏造と思われる散文という形式ですから。柳氏の、決して表立って語らないこの批評性に、おもわずぐっときてしまうのです。

饗宴 ソクラテス最後の事件 (創元推理文庫)

饗宴 ソクラテス最後の事件 (創元推理文庫)