森絵都「ラン」

ラン

ラン

とても不思議な、伸びやかでゆるやかな物語だった。そのすばらしく突き抜けたデザインの表紙に思わず手に取ってしまったものの、はじめのページから主人公が肉親を次々と失い、死に引き寄せられてゆく描写に恐れおののき、それでも数ページ読んでみるとそのリズム良く紡ぎ出される言葉の連なりに、これは大丈夫だ、と思い読んでみた。で、結局大丈夫だったしとても面白かったし傑作だと思うのだけれど、やっぱり不思議でたまらない。



両親と弟を事故で失った主人公は、ある日彼ら彼女らが「存在」し生活する霊界への道を、ふとしたきっかけで見つけてしまい、家族と「再会」を果たしてしまう。その道は40キロととてつもなく長いのだが、不思議な自転車で主人公は楽々と辿り着き、家族との失われた生活を再び手にすることができる。しかしその不思議な自転車に別れをつげる必要が生じ、焦った主人公はマラソンを始め、そのうちおかしなマラソンチームに引っ張り込まれることとなり、あれやこれやの騒ぎが勃発する。



とても自分と近い距離で死を感じた場合、何か死に引き寄せられてしまう気持ちになるのはよく分かる。でも、それってとても危ない気がしてならない。ところがこの物語の主人公は、あっさり死の世界に辿り着いてしまう。これは危険な話だなあと思って読んでいたら、その後の展開がなんだか微妙におかしな雰囲気を漂わせる。家族と「再会」した主人公は、ふと何かがおかしいと気がついてしまう。こんなはずではなかった。自分たちは、こんなに幸せな家族ではなかったと。そこにいるのは、悲しみや辛さが消えた、なにか幸福だけの、またリアルではない存在であるらしい。



この、決して手に入れられない、手にしてはいけないものを掴んだと思ったら、実はそうではなかったという構図は、この物語を終始支配しているように思えた。そのたびに、僕はひやりとした冷たさを感じ、そしてああやっぱりといった安堵感を憶え、そしてなんだか残念で悲しい思いにとらわれてしまう。結局主人公は何かを手に入れることができたのだろうか。物語の即物的な意味では、何も手に入れていない。



しかしこの物語をとても素敵な、また大きな救いのあるものとしているのは、まさにこの構図ではないかと、最後まで読んで強く感じた。何かを一生懸命にすれば何かが手にはいるわけではないし、失ったものは決して取り返せない。けれど、なにか僕たちは日々変わりながら、一歩一歩歩いてゆける。それだけでいいではないか、ということを、この物語は力強く、語りかけている気がしてならない。



でも、この作者は声高には語らない。物語に僕を引きづり込みつつ、主人公を窮地に追いつめたり、とっても憎たらしい登場人物を描いてみたり、ある種の不条理な状況を見事に作り出す。しかもそのたびに、なにかこちらの勢いを逆手に取るような、柔道の返し技のような力の抜けた展開で、僕の高まった気持ちをぼきぼき脱臼させてゆく。そしてその根底にあるのは、なにかあっけらかんとした明るさというか、からっとした諧謔精神というか、馬鹿馬鹿しいまでのおかしみなのだ。



読み終わってみて、一体この読書経験は何なのだろうか、作者は何を伝えたかったのか、または何を書いてしまったのか、ちょっと考え込んでしまった。でもなんとなく、やっぱりこのあっけらかんとした明るさがとても素敵だし、作者が書きたかったことなのかなあと感じたわけです。いろんなことはどうにも取り返しがつかないのだけれど、だからこそ頑張って走らなくても良いし、ぼちぼち適当にやってゆけばよいじゃんって。そしてまた、差し込むような悲しみのなかでこそ、適当でおさまりのつかない生活は、光り輝くことができるし、実際光り輝いている。そんなことを、まわりくどく書き連ねている、素敵な物語だったなあと、読み終わって少し経ってから考えた。

森絵都理論社、2008.6)