芦原すなお「雨鶏」

雨鶏 (ヴィレッジブックスedge)

雨鶏 (ヴィレッジブックスedge)

芦原すなおって、どれくらい有名なんだろう。少なくとも僕のまわりでは読んだって人を聞いたことが無いし、「青春デンデケデケデケ」はとても有名な作品だと思うけど、僕だって読んだことがない。でも、最近創元推理文庫で次々と作品が文庫化されているので、推理小説好きには知られているのかなあ。でも、この人の作品の豊かさって、「推理小説的なるもの」とはずいぶん遠いところにある気もする。



「雨鶏」は、田舎から上京してきて大学の独文科で学ぶ青年の、なにかふわふわと漂うような、そして俯瞰的に自分たちを見つめるかのような、不思議な生活の流れを淡々と描いた連作小説である。物語らしい物語は特になく、ちょっとした、しかしどうでも良いエピソードとその周囲のことどもが、作者の筆先から転がり落ちてしまったかのような軽く、力の抜けた言葉の連なりによって語られる。そして登場人物達は、センテンスが短く改行の多い、潔くやる気の抜けた言葉を交わし合う。主人公たちが大学生活を送るのは1960年代、学生運動のまっただ中なのだが、しかしそのようなことはつゆとも感じさせず、主人公は自分の感じるまま、気の赴くままに生活を重ねて行く。

僕は、この主人公の姿が、なにかうらやましくて仕方がなかった。「フューリング」という章の最後の部分、友人達が卒業論文のテーマをあれこれ議論するのを聞いて、何気なく読んでみたトーマス・マンの「魔の山」がとても面白かったのを思い出した主人公は、こんなことを考える。



「こうなると、卒論はマンかいなあ、とも思うが、何かの目的をもってーーとくに、「勉強」のために読むとなると、とたんに味けなくなるのはもう経験でしっているし、ぼくは「勉強」しようと思って大学にはいったわけではないし、少なくとも四年間は僕の好きなように過ごしたいので、今は何も考えないでただ楽しみのためだけに読みたいと思う。

そんなことを言ってるあいだに二年なんかすぐに過ぎて、あとで泣きをみるんだと巽が言ったから、僕の二年先の心配は君に任せるよと答えたら、また呆れられた。

とにかく今からくよくよとそんな心配をする気にはなれないーーと言うか、不確定の将来なるものでもって現在を縛るのが、なんだか馬鹿馬鹿しいのだ。こんなぼくにも、今年もこうしてちゃんとうれしい春がめぐってきたのだから。」



いいなあ、こういう力の抜け加減。でも、実際は大学生がこんなことを考えられるはずは無いと思うんだ。僕が大学生のころは、それは色々な雑念や思いや焦りにとらわれて、とてもこんな大きく構えることはできなかったし、むしろできる人はなにかおかしいはずだ。だからこれは、作者の一つの幻想の現れだと思うし、その意味で本作はある種のファンタジーの世界を描き出しているのだと思う。

巌窟王」という、指導教官との初めての面接を描いた章で、定年を二年後に控え「巌窟王」と渾名される奇特な教授は、文学は何かと主人公に問われ、次のように定義する。



「遊びだよ。わしの研究ーーと一応呼んでおくがーーは、作品をより面白く、楽しく味わうためのものであって、それ以上でもそれ以下でもない。だから遊びだというのだ。教養だの、思想だの、倫理だの、主義だのといったもので勿体ぶって文学を飾りたてるのは、結局のところ貧乏根性だね。わしはそう思う。何かのためにならないと、そのものは価値がないという根性だよ。だったら文学などといった、もともと無用無価値のものを相手にすることはないんだ。君は卒論で学問なんかしなくていい。どれだけ面白い思いをしたかを書けばいいんだ」



この台詞もとても素敵なんだけど、でもこんなことを言える大学教授もいないよね。それこそこんな場面に出会えたとすれば、それは極めて非日常的な、むしろ祝祭的な経験だと思う。僕もそんな場面に出会ってみたいなあ。でも芦原すなおは、なにかこのような静かに人々が祝福されてゆく瞬間を、それは巧みに物語に織り込んでゆく。

この「巌窟王」という章の最後で、主人公と友人と友人の妹は、おにぎりとおかずとビールをを持って、吉祥寺のオデヲン座で三本立ての映画を見る。そして主人公は、突然ある気持ちに襲われる。



「ぼくらはビールを飲み、弁当を食べなから(暗いところでサバ・マヨネを食べるのは、なんとなく気持ち悪かったけれど、たしかに不思議にうまかった)、映画を観た。三本とも、ものすごく面白かった。そして、映画を観ながら、ぼくは自分でも驚くような、ちょっと泣き出したいような幸福感に襲われた。何が原因でそうなったかはわからない。ビールのせいもあったのかもしれないが、それだけとも思えない。ただ、自分は自由なんだという感覚、そして、この世には素晴らしい楽しみが溢れているのだ、といったような感覚が、その幸福感の底にあるような気がした。そしてもちろん錯覚なんだろうが、まったく思いがけないことに、ひょいと巌窟王の顔が一瞬スクリーンに浮かんで消えたのである。」



抜き出しただけではわかりずらいと思うけれど、この部分まで読み進んで突然の感情の高まりに襲われてしまい、思わぬカタルシスを感じさせられてしまった。なんとも言いがたいんだけど、そのような生きることのよろこびって、確かに日常に遍在しているし、そんなことを、こんな気の抜けた文章で伝えられてしまって、とても気持ちが良かったのです。

冒頭で言いたかったことは、こんなに素敵な文章と作家を、どれだけの人が読んでいるのか、不思議になったということなのです。そして少なくとも本作は、とてもとてもおすすめです。文庫版を読んだが、こころ美保子さんの表紙もとてもチャーミングで美しい。

芦原すなお、ヴィレッジブックスedge ソニーマガジンズ、2006.3)