姜尚中、小森陽一「戦後日本は戦争をしてきた」

石原都知事に「怪しげな外国人」と名指しされた政治学姜尚中と、「9条の会」の事務局長もつとめる文学者小森陽一が、それぞれの領域に越境しながら「戦後」日本のあり方と現在から今後の政治、社会的動向について、批判的に語った対談集。「「テロ」と「戦争」の二十一世紀」「「平和国家」の幻影」「「虚」から「実」の時代へ」「「戦後日本」の戦争をおわらせるために」の、全四回の対談を収録。

現在の日本のいわゆる代表的な「知識人」と僕が考える二人の対談であり、その言葉には冷静ながらも鋭さと実感を伴ったいらだちというか、現状に対するままならぬ思いが感じられる。本書を読んで一番腑に落ちた部分は、最初の部分「「テロ」と「戦争」の二十一世紀」における、現在の「テロ」という言葉の使われ方に対する批判である。小森氏は言う。



「まず「テロ」とは本来、国家の内部で権力に抵抗する者が、殺人などの暴力によって権力側をおどす犯罪です。「テロ」を取り締まるのは警察で、テロリストは逮捕の対象です。ブッシュは、主権国家をテロリスト集団に見立て、国家間問題を国内問題であるかのように描き出し、警察の代わりに軍隊を動かしたわけです。逮捕が戦争に置き換えられたのです。」



この結果、逆にこれまで「戦争」であったものが「テロ」に置き換えられ、アフガニスタン戦争やイラク戦争では公式の宣戦布告をともなう「戦争」という形式が取られなくなったと、小森氏は述べる。その結果を、姜氏は以下のように批判する。



「相手はとにかく犯罪者だというわけです。犯罪者が世界にひしめいていて、その犯罪者をかくまう国がある。それはタリバンであり、フセインであるという。場合によっては他の国になるかもしれない。警察権力と軍事力の境目がなくなってくると、次第に反省的な回路が絶たれてしまうわけです。だから、対テロ戦争イラク戦争を支持したジャーナリストや政治家や学者たちは、「カエルの面にしょんべん」じゃないけれど、まったく懲りていないだけではなくて、何の反省もしていないと思いますね。」



「「テロ」との闘い」という言葉や、その言葉が僕にもたらす不愉快な感覚は、これらの説明によってずいぶんと説明され、すっきりとすることができた。ここで述べられていることは、まずある出来事に対して、その意味をすりかえ、都合良く利用するために、それとは異なった使い方をされていた言葉をあてはめる。そのため、その出来事に対する冷静で分析的な視点を機能させなくし、批判も許さなくするということかと思う。最近僕の住んでいる基礎自治体から、「防犯マニュアル」なるものが送りつけられてきた。それを見ると、なぜか示されている統計資料では犯罪は減っているのに、よりいっそうの防犯策が奨励され、提案されている。なぜ、現実に犯罪が減少しているのに、社会の関係を途絶させ、ただでさえ生きにくい人をより生きにくくするような可能性のあることをしなければならないのか。ここにはやはりある種の思考停止があり、それは直接的に「「テロ」との戦争」という言葉と関係している気がしてならない。

もう一つ、僕にとって重要であった本書の議論に、北朝鮮問題がある。僕が不思議だったのが、なぜ日本は拉致被害者問題が解決されない限り、北朝鮮との交渉は不可能だと言い続けるのかと言うことである。これは、テーブルの向こうに他者がいることを想定している限り、とうてい現実的な主張とは言い難く、むしろ始めからテーブルをひっくり返すことを想定する主張だとしか思えない。その帰結として想定されているのは、北朝鮮という国家の崩壊であり、これこそ拉致被害者の生存と東アジアの安定を危うくさせるものである。そのあたりについても両者の議論は腑に落ちる。姜氏は言う。



「テレビと言えば、私は一年に一回あるというTBSの北朝鮮特集の番組に出ました。その番組に拉致被害者家族の蓮池薫氏の兄、透氏もでており、彼と話していてわかったのですが、なぜ彼が「救う会」から出て行ったのかというと、「救う会」が体制転換を考えているからだ、というのです。拉致問題を解決するということとレジーム・チェンジを起こすということは違います。体制を転換させれば、生き残っている日本人は全部殺されてしまう。誰が考えてもそうですよ。コソボの問題を見れば、北朝鮮の体制が崩壊すればどうなるか自明です。残っている人は生きていけないでしょう。当然のことです。」



この意見に対する小森氏の回答も辛辣である。



「最も現実的な問題の解決とは距離の遠い、北朝鮮を「恐怖」の対象とする、極めて非現実的な妄想と幻想が、ナショナリズムの中では現実的のように見えてしまう。この構図が一番危険だということですね。そして、「恐怖」を煽る人たちは見事に利益をかっさらっていっている。この構造を転換していくことができるかどうか、だと思うんですけれどね。」



引用ばかりになってしまったが、とにかく本書には冷静な分析と説得力を感じる。それは、著者の二人が積み重ねた思考を、これでもかというくらいに簡単な言葉で述べながら、それでいて議論の内容自体はまったく「わかりやすく」はない、つまり読み手に考えることを要求するためだと思う。世の中はとにかくわからないことでいっぱいで困ってしまう。最近の道路特定財源に関しても自民党民主党、どちらの議論が将来に対し益になるのか、ぼくにはさっぱりわからない。しかし、本書を読むとそれでも情報を集め、冷静に考えることである一定の道筋が見えてくる、ということに関して、少なからず希望が持てるのである。また、少なくとも本書の著者二人は、しっかりと考えていてくれるということに安心感を感じ、かつそれですっかり気分が良くなる自分の怠惰さも感じるのである。