戸板康二「團十郎切腹事件」

團十郎切腹事件―中村雅楽探偵全集〈1〉 (創元推理文庫)

團十郎切腹事件―中村雅楽探偵全集〈1〉 (創元推理文庫)

年老いて引退同然の歌舞伎役者が、懇意の新聞記者が持ち込む不思議な事件の謎を解きほぐす短編集。



不思議な雰囲気がする物語である。物語での現在時は昭和32年から35年なのだが、その時点でおこる事件もあれば老優が思い起こしながら語る事件もあり、その場合には物語の舞台は明治から大正までを範囲に含む。さらに、表題作のようにまだ江戸時代を引きずる事件もあり、なにか近代から少し前の「現代」までを、まるですべて昨日のことのように語る物語で構成されている。



文章は恬淡としてはいるものの味わいがあり、古めかしいところはあるもののとても読みやすい。基本的には無駄な装飾的な要素が少なく、文章の調子もよい。この読みやすい文章のなかで繰り広げられる世界は、これがまた歌舞伎というまったくもって理解出来ない世界なところも面白い。



歌舞伎のような、特殊な世界を舞台にした推理小説は他にも読んだことがあるが、記憶に残っているものは、どれも極小の世界の中で繰り広げられる、どろどろとした人間関係を主題としたもので、なんとも辟易したことがある。しかし、本作はそのような特殊なお約束を骨組みとしたものでは無く、なにか歌舞伎の世界を少し離れた場所から見ながら描かれているような、温度の低い感じがして面白い。



しかし不思議なのは、歌舞伎という芸能が新聞にも取り上げられ、興行を打てば話題になった時代があったということだ。このあたりは何とも実感が無く、異世界の話を読んでいるような、そんな感じがした。この連作の最も印象に残った部分はこのところで、半ば隠居した老優のあり方に、現在ではまったく変容してしまった世界の残り香をかぐような気がして面白かった。