斎藤美奈子「紅一点論」

紅一点論―アニメ・特撮・伝記のヒロイン像 (ちくま文庫)

紅一点論―アニメ・特撮・伝記のヒロイン像 (ちくま文庫)

戦後から現在にいたる特撮ドラマやアニメ、そして伝記における女性の扱われ方の表層のみを考察し、そこから簡単に読み取ることの出来る男性と女性のステレオタイプな表象を痛烈に笑い飛ばしたもの。

著者は冒頭で、このような分析はいまや巷にあふれかえっていることをみとめつつ、本書がそれらとは趣が違っている理由を以下のように述べる。



「第一にここの作品評は目指していないという点である。作品としての個別性、個別のヒロインよりも、ジャンルの全体像、総体としてのヒロイン像に目を向けたい。第二に、深層の構造よりも、表層にあらわれた意匠に注意をはらっている点だ。物語の構造やそこに秘められた深層心理をさぐつことにも、むろん意味はあるだろう。しかし、本書で目を向けたいのはむしろ表面にあらわれた意匠であり、記号である。」



本書を類似商品とは際だって異なった迫力と説得力を持った作品にしているのが、おそらくこの立場だったと読み終わって思わされた。表面にあらわれた意匠、それは単純に見えて指摘や分析は難しい。なぜならばそれはそのようであることが当然と受け止められるように設計されているため、注意を向けること自体が難しいのだ。しかし、斎藤氏は膨大な事例を積み上げることによって、個々の作品に現れる小さな違和感を増幅させ、誰もが理解が出来るおかしな話を拾い出す。本書の魅力は、これはほかの斎藤氏の著作に共通して言えることだが、その語り口にもある。氏は、アニメ・特撮の世界を「男の子の国」と「女の子の国」に分けた上で、その二つの国の骨格は面白いことにほとんど同じであることを指摘する。



「二つの国の文化・思想は、それぞれの番組のタイトル名さえ支配している。変身ヒーローものも魔法少女ものも、感じとカタカナの複合体による「漢漢漢漢カカカカカ」というタイトルが主流だが、小さいお友達は文字は読めないわけだから、最初に受ける洗礼は耳から入る音である。」



まあこんな感じで、上滑りをしそうでしない、絶妙な口調で辛辣な批判的分析が展開される。思うに、これは基本的にはアニメや特撮、伝記などを受容する人、見たいとおもう人の欲望を鋭く指摘したものだと思う。作品個々の分析に深入りしないと言うことは、その作品の著者や共同制作者など、作品の内部にあるものは問題にせず、むしろ受け手の側の欲望が投射されたものがそれらの作品に映し出されていると捉え、その映し出された欲望を問題にしているということだと思う。これは結構面白くて、確かに「エヴァンゲリオン」や「もののけ姫」など作品世界に関する批評はあまたあれど、「だからどうした」と言いたくもなるような自閉的、内省的な世界に閉じこもることなく、僕にも納得と共感のできる分析が繰り広げられる。例を挙げればきりがないが、例えば「宇宙戦艦ヤマト」は高校野球部、「ガンダム」は大学全共闘、「エヴァンゲリオン」は腐った家族をなぞったチーム構成であるとする部分や、女性ヒーローものの展開と混乱を論じた部分は、もう最高。



「「エヴァンゲリオン」が辛気くさい内面のドラマに没入していったのと逆に、「ナデシコ」は徹底したナンセンスの方向へ向かった。々「組織のどん詰まり」なら、「ナデシコ」のシニカルな批評性の方が、「意味」への探求を拒絶する分、むしろ知的かも知れない。」



ナデシコ」なるアニメーションはみたことがないが、どんどん見たくなってしまう。また、もののけ姫に対する痛烈な分析も楽しい。



「というわけで「もののけ姫」の見どころのひとつは、怪獣映画のパロディのような、怪獣サンと悪の帝王エボシ御前との直接対決シーンである。(中略)さすがは宮崎アニメの集大成。男同士だったら珍しくもないこんなシーンも、美女同士の対決となれば、それは興趣もひとしおである。

まぬけにも、かかる女同士の抗争の場に割って入るのが主役の少年アシタカである。(中略)ところが「もののけ姫」のアシタカは、シシ神の森とタタラ場、サンとエボシの両方をコウモリよろしく行ったり来たりし、「そなたの中には夜叉がいる。この娘の中にも打」「これ以上憎しみに身をゆだねるな!!」なぞと、したり顔でいうだけの、お利口さんなヨソ者の兄ちゃんである。(中略)しかし、物語はまことにご都合的な結末を向かえる。両者の対立構造はそのままで、アシタカだけが両方の女に気に入られるのだ。」



伝記に関する部分もとても痛快で楽しいものでした。とにかく、アニメと伝記という二つの分野を並べて論じるというアイディア、そして表層のみを分析するという手法が秀逸。とても素晴らしい一冊です。