岩波明「狂気という隣人 精神科医の現場報告」

狂気という隣人―精神科医の現場報告 (新潮文庫)

狂気という隣人―精神科医の現場報告 (新潮文庫)

現在医大助教授を務める著者が、主に松沢病院での勤務医時代の体験を元に精神病患者の姿を描いたエッセイ集。「もう一つのER」と題された精神救急の実態を描いた章からはじまり、「精神科救急の外国人」「スキゾフレニック・キラー」「殺戮する脳髄」「幻聴と殺人」「自殺クラブ」「サイコティック・ジャンキー」「保安病棟」と派手なタイトルの章立てで構成される本書は、実のところあんまり章のタイトルと内容の関係が感じられない、極めて穏当に綴られたエッセイでした。



著者は東大医学部卒で松沢病院を始め多くの精神病院で勤務し、現在は埼玉医科大学精神医学教室の助教授だそうである。基本的には落ち着いた口調の穏当な文章で、淡々と描かれる精神救急の現状にはなるほどと思わされるところが多い。それ以外の記述も、おそらく意図的に専門的にならず、ほどほどに一般的に受け入れられる言葉遣いを選びながら、しかし描かれている内容は決していたずらにドラマティックでもなく、論点をはっきりと提示してゆく。この全体的な姿勢にはとても共感したのだが、気になるのはなぜこの本を書いたか、ということなのである。この本は出だしの章から面白くのめり込むように読ませるのだが、一方でこの人はなんでこんなことを書こうと、また読ませようと思ったのか、またそれはいかなる立場なのか、なんともわかりにくい。さて、最後まで読んで僕が感じた著者の主張は以下の通り。



1)重度の触法精神病患者(専門用語の使い方は正しくないかも知れません)の入院や措置の決定は、医者でなく司法が行うべきである。

2)これと関係して、警察は医者に患者を引き渡すことしかしない。これでは医者はたまらない。

3)重度精神病患者(特に触法精神病患者)のためには、現在の精神病院だけではなく特別な施設が必要かも知れない。



これだけの結構複雑な内容を、素人にもわかりやすく理解させるためにこの文体、文章の内容を選んだかと思うと、このお医者さんただ者ではないという気がしてくる。しかも、ところどころに宮崎事件や実際の事件の概要を載せるなど、サービス精神も旺盛でとても読んでいて楽しい出来となっている。残念なのは、種々の議論に対する著者の主張自体はあまりはっきりとしないということ、また、現状に対する不満は分かるのだが(それは誰でも持っている)、では医師という職能においてどのようなシステマティックな制度変化を行うべきと考えているのか、よく分からない点である。また、匿名性の議論についても余りよく理解出来ないし、議論の流れからして唐突な感を否めない。あと、精神病院の悲しくもおかしき一日みたいな描写って、なだいなだ氏がもう充分してきたのではないか。このような日常を知らしめることも良いが、なにかこれ自体には議論の発展を促す要素を感じることはできない。読み物として面白いから良いとも、思いはするのだが。



しかし、この本の僕にとっての本当の面白さは実は上記のようなところではなく、おそらく小説好きが本書を読めば一発でわかるであろう、著者の小説に対する過度な偏愛具合なのである。だって、引用される文献や参照される名前からしておかしい。まずアメリカのドラマ「ER」の原作はマイクル・クライトンの「五人のカルテ」であると、第一章の最初のページに書かれているところからしてあれっと思ったのだが、島崎藤村の「夜明け前」が明治期の精神病患者の扱われ方を解説するために引かれるのは良いとして、精神病室の殺人者の解説にはディクスン・カーが引用され、サイコパスの犯罪者についてはパトリシア・コーンウェルが、昭和初期の精神病患者の扱われ方については「ドグラ・マグラ」が分析されるのである。しかも著者は「ドグラ・マグラ」に対する評価が大変に高く、その解説の一環として「虚無への供物」と「黒死館殺人事件」が挙げられるという勢いの良さ。この連想から議論される「治療共同体」の実践者であるサリヴァンという精神科医に、フィリップ・K・ディックが憧れを持っていたという、議論の筋道からすればどうでもよい豆知識までもが披露される。というわけで、著者は本当に小説が好きなんだなあと感じたわけで、そう考えると本書は精神病患者を語りたかったのか、それとも精神病者を小説を用いて語ってみたかったのかと考えたくもなり、ますますなぜ作者がこの本を書いたのか、気になってくるのである。いずれにせよ、上に挙げたような小説関係の記述もふくめ、なんだか良く意味のわからない豆知識もちりばめられた本書は、全体としてはとても得るものの多い良質な本でした。