森達也「日本国憲法」

日本国憲法

日本国憲法

日本国憲法の意味と価値を、自身の天皇へのインタビューを主眼としたドキュメンタリーが潰えて行く過程も含めながら、静かに切々と語ったエッセイを集めたもの。

森達也は、自分の憲法に対する立場を以下のように述べる。「憲法は、時代や状況が変わったからといって、安易に変えるべきものではない」と。また、改憲への理解を示した上で、しかし現在憲法を変えることへの抵抗感を感じると述べた上で、以下のように述べる。「ならば僕は何に抵抗するのか?今のこの時代の空気に、だ。こんな世相下で、とくに九条を変えてほしくないのだ。」本書には、静かだが力強い主張がみなぎっている。それは声高にわかりやすく、聴き心地のよい言葉を発する態度ではない。正しいと思われることは、実は遠回りとじっくりとした思考、そして特にわかりやすく割り切れることでは無い場合が多い。むしろ、割り切れず、悩みながらも、遠回りと思われる道筋をゆっくり丁寧にたどったところにあらわれてくる、そんな著者の主張が、本書からは響いてくる。



憲法九条の精神について、森は以下のように述べる。

「もう一度書く。九条の独自性は、自衛権を否定したことにある。たぶん今の世相なら、「そんなことを本気で言っているのは日本くらいだ」と笑う人のほうが多いのかもしれない。僕は笑わない。半世紀以上も前に戦争の真髄に辿り着いた国に自分が生まれたことを、とても誇らしいと思う。」

この人が使う「誇らしい」という言葉は、不思議と痛々しい。



また、吉田茂が防衛のための軍隊を持たないのかと質問された際、多くの戦争は防衛から始まっていると答えたとされるエピソードは初めて知った。これを含め、本書にはいまさらと思うほど、うなずかされるところが多い。森は言う。

「国家の構成員である国民が、主語を一人称単数から「国家」や「我々」など複数や集合の代名詞に置き換えたときに、ファシズムは萌芽すると僕は考えている。主語を「大きくて強いもの」に依拠すること、つまり主体を失えば、当然ながら述語は暴走する。威勢がよくなる。」



これはまさに、日々僕が感じていることでもある。「我々日本人」と言った時の、その極めて権力的で暴力的な響きを、森は執拗に指摘し、そしてその指摘は何か鈍感になりつつある僕の感受性を生き返らせてくる。畏友Y兄に進められた雑誌に「前夜」という雑誌がある。「前夜」とは、今日本は戦争前夜の状況にある、という主張から来ている。そしてこれは冗談ではない。「美しい国」「国家の品格」など、感覚がまったく失われてしまった言葉が、虚しくも大きく響くいま、森がこの本を出版したことの意味は大きい。いつも思うのだが、このような本を読むたびに、勇気づけられ、そしてとても怖くなり、焦りを感じる。ここまで叫ばないと、声は届かず広がらない。そんな時代になってきてしまっている。