若竹七海「海神の晩餐」

海神の晩餐 (光文社文庫)

海神の晩餐 (光文社文庫)

日本が対中戦争へと突入して行きつつある1932年、今で言うニート状態にある資産家の息子は、見かねた家族によって氷川丸に乗ってアメリカへと旅することになるのだが、その道中で謎の乱数表事件や結末の欠落した探偵小説や金髪女性の失踪事件など、様々な出来事に出くわすことになる。

どうも若竹七海氏の作品が光文社文庫で出版されると買ってしまうのだが、これは杉田比呂美氏の表紙が素晴らしいからだけではなく、やっぱりとても上質な物語だからなのである。本作は舞台となった時代のちょうど20年前にあたるタイタニック号の悲劇を下敷きに、日中で高まる緊張感とそれにともなう日米関係の悪化を軸として、豪華客船の一等客室に乗り込んだ乗客のなかの微妙な緊張感と、そのある種の爆発を物語の核としている。基本的にはこれと言ってミステリ的派手な事件は起こらないのだが、様々な登場人物達が様々な背景と問題を抱え込み、それが微妙に交錯して小さな事件が連鎖的に発生して行く様は、構築力の勝利というか、なんとも言い難い力強さがある。そのため、物語前半では多少物足りなくもあり眠気を誘う雰囲気も感じられるのだが、作中作で殺人事件が語られるあたりから、大した出来事は起こらない一方で文章と物語の緊張感が一転して高まりを見せ、その鮮明な対比効果もあってかどんどん物語にひきこまれてしまった。本作は群像劇的な構造も持ち、なんだかよく分からないエピソードも見られるのだが、ヒロインたる女性の弟の手記という形で語られる部分も秀逸。全体的なまとまりも素晴らしく、若竹氏の作品の中ではあまり印象は薄かったのだが、今回再読してこんな素晴らしい作品だったかと少し驚いた。若竹氏と言えば主人公を極めて不遇に扱う「残酷作家」の系譜に連なる作家だと思うのだが、本作は珍しく明るい結末を向かえるのも特徴か。しかし、エピローグとして語られる後日談はやっぱり不安に満ちあふれた物で、ああ、やっぱり登場人物に辛く当たっていると安心した。