柳広司「饗宴(シュンポシオン) ソクラテス最後の事件」

饗宴 ソクラテス最後の事件 (創元推理文庫)

饗宴 ソクラテス最後の事件 (創元推理文庫)

ソクラテスの友人クリトンはソクラテスとともに食事に招かれるのだが、そこで招かれた客は一人ずつ何か目新しいことを話すことを求められる。その中でほのめかされた謎のピュタゴラス教団やホムンクルスの噂は、後日二人の前に殺人事件のかたちをとって立ち現れることになる。

極めて軽やかな文章を書くためか、なにか軽さが感じられる字面文体の見た目とは裏腹に、かくも精緻に構築され、また重く直截なメッセージを発する作家が現代に存在すること自体が驚きである。ソクラテスの人生の一時期を舞台とする本作も、始めは本当にこれがミステリーとして、またそもそも物語として成り立つのだろうかとの不安とともに読みはじめさせられるのだが、最初の数行を読んでいるうちにあっさりと柳氏の物語の世界に飲み込まれてしまい、その物語の進展と結末にただただあっけにとられるだけである。極めて文学・歴史的知識のバックボーンのもとに構築された本作は、なぜこのようなことを知っているのか不思議になるほどの蘊蓄に彩られてはいるが、物語自体はいたって読みやすく爽快である。しかし、その最終局面に仕掛けられた爆弾と、登場人物の一人が発する言葉には、再読ながら極めて大きな驚きと納得があった。物語自体は人心が混乱状態にあるアテナイで、謎のピュタゴラス教団の暗躍と思われる奇妙な殺人事件が次々と起こるという物だが、その中である一人の登場人物は、この混乱を鎮めるためには何か外部に標的を作り、そこへ向かって人々の恐怖と敵愾心を高め、よって内政の結束と落ち着きを導くべきだという。それに対しソクラテスは、そのような行為こそが人々の未来のありようにとって大きな損害をもたらす可能性があるとやりかえす。このようなやりとりを読んでいると、何か最近の「犯罪率の上昇」や「凶悪犯の増加」、ひいては「教育の崩壊」などの言説が頭を駆けめぐり、ソクラテスの言葉に大きく頷かされるとともに、柳氏の物語の世界がなにか現実の世界にこぼれ落ちてしまったかのような、奇妙な感情を抱いてしまうのである。