ジェス・ウォルター「市民ヴィンス」

市民ヴィンス (ハヤカワ・ミステリ文庫)

市民ヴィンス (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ニューヨークでマフィアのトラブルに巻き込まれた主人公は、証人保護プログラムに入り田舎でドーナツ屋を営みつつ麻薬の密売とカード偽造にいそしむのだが、そんな彼に殺し屋が差し向けられ、慌ててなんとかしようとするお話。

帯には「男には許されないのか、小市民的な幸せさえも。」と書かれているが、ドーナツ屋はまだしも麻薬の密売とカード偽造を行う生活は、全く小市民的ではなく単に犯罪者の生活だと思うのだが。それはともあれなんだかおかしな話で、殺し屋から逃げるために昔のトラブルを解決すべく男が奔走する顛末が話の本筋なのだが、なぜかそれに大統領選挙(1980年、レーガンが勝利した年)の物語が覆い被さるように語られ、物語に重厚さを与えているかと思うとそうでもない。突然カーターやレーガンによる一人称の語りが差し挟まれたりするのだが、あれは一体何だったのだろうか。主人公が市民的な生活を取り戻すことに対する理由づけなのだろうか。何か不可解だ。おそらくこれはハードボイルド小説の一つの変奏なのである。男性版ハーレクインロマンスたる「ハードボイルド」小説とは、形式上男性は奇妙な価値観にのっとり行動し、そして短いセンテンスと紋切り調という奇妙な口調で語ることが求められる。これは一般的な話し言葉から見れば全くおかしな行動なのだが、その対極にある選挙演説、そして下院議員候補者の語りや大統領候補者の語りが、そのおかしさを主人公に気づかせ、普通の生活へと引き戻す契機となっているのである(と考えることもできる)。そう考えるとこれは単にけちな犯罪者が更正するまでを描いた教訓小説と捉える事もでき、考えているうちに本当にどんどんそんな気がしてきた。さらに考えると、これは「ハードボイルド」的世界のおかしさを確信犯的にあざ笑った小説のような気もしてきたのだが、ここまで来ると考えすぎと言うより妄想であろう。なにが言いたいかというと、なんだかおかしな馬鹿馬鹿しさが感じられる小説だったという事です。