金子勝「日本再生論 <市場>対<政府>を超えて」

冷戦時代的「大きな政府」と「小さな政府」の2項対立はもはや機能せず、現在現れつつある「新しいリスク」に対して主流経済学は手を打てない。その中で、「グローバルスタンダード」に対してどのような対処をすべきか、また日本社会が直面している課題に対して、どのような手を打つべきか、検討し提言したもの。

基本的には、現在の社会的・経済的現状を冷静に捉え、長期的な視野を持って持続的に社会を維持するためには何をするべきか論じたもの。著者は言う。



「そして政策が行き詰まるたびに、主流経済学者もメディアも、一発主義の「夢語り」で事態が打開できるかのように人々を煽ってきた。それは、国家レベルで「国民」共通の「夢」を持つべきだという思考法であり、実は高度成長の残像を追いかける「夢語り」の手法であった。」

「私たちは。そろそろ一発主義の「夢語り」から目を覚まして冷静さを取り戻さなければならない。足下をしっかりと見つめて、この社会が直面するリスクを冷静に把握しつつ、一つひとつ制約条件を克服するという発想が不可欠になっている。」



このような視点を前提として、著者はまず1999年経済白書発表時の堺屋太一長官の「日本をリスクのとれる社会にする」という発言を批判する。ここに至る数年間、リスクを全くとらない銀行やゼネコンに公的資金を支出しつつ、金融システムを不安定化させ、とても個人では回避することのできないリスクを増大させてきたではないか、と論じる。次に「キャッシュフロー会計」の欠点を批判した著者は、その関連で「グローバルスタンダード」導入の動きについても徹底的に批判して行く。その論点は二つであり、一つは政策的対応を考えることなく「グローバルスタンダード」を導入することの不合理さ、またもう一つは「グローバルスタンダード」と言われていることの一部が、「ペイオフ制度」に示されているように実はアメリカのスタンダードですら無く、曰く言い難い単に不合理な制度であることだ。このような中で、景気対策でも行政改革でも日本の財政赤字は再建できないと著者は論じた上で、どのような財政管理体制が必要か、そしてどのような社会のあり方(それは動かすことのできない身分的格差をどれだけ生じさせないかということに焦点があてられる)が必要か、淡々と論じて行く。正直、本書で繰り返し批判される「主流経済学」について全く知識がない僕は、いまいちピンと来ない、また理解ができない点が多々あるのではあるが、それでも基本的には全ての議論が丁寧に根拠を示し、組み立てられたものであり、非常にわかりやすく説得力がある。個人に回避出来ないリスクを作りつつ「リスクを取る社会」を謳うことの非現実性や、責任を取らなず若い世代のための社会基盤整備をしない「食い逃げ世代」が、学校や少年に対し躾や道徳教育を強調し、少年法改正に夢中になることの欺瞞は、残念なことに極めて実感を持って納得できてしまうのである。これに関連する団塊世代の一部の、保守を自称するナショナリストの分析も面白い。



「彼らは「既得権益」を擁護し根本的改革を忌避する役割を負っている。そして彼らが提出するナショナリズムは、二つの機能を果たす。一つは、アメリカニズムを批判することで、雇用リストラや経営困難に直面する同世代に精神的癒しを提供することである。いま一つは、格差を隠す機能だ。それは、あらゆる人々を「共同体」の一員として並列に扱うことによって、擬似的「平等」機能を発揮するからだ。」



あれやこれやの書籍を思い浮かべると、なるほどなあと深く感じるのである。面白く、かつ憂鬱な気分になることは、これが2000年に出版されたものであるという事実だ。その後7年間で事態は著者が予想した最悪のシナリオを取りつつあるように思える。実際地方自治体は破産し始め、国の借金も勢いよく増えつつある。そして「見えない格差」は現実に広がりつつあり、また少年犯罪の増大や外国人・精神障害者犯罪の増加など、根拠もなく的はずれなリスク議論はいたるところで行われ、「グローバルスタンダード」導入にともなうより現実的で身近なリスク議論は、やはり行われているとは思いがたい。著者がいま何を考え、議論しているのか、少し恐ろしくもあるが確認しなければならない。