山口文憲「日本ばちかん巡り」

日本ばちかん巡り (ちくま文庫)

日本ばちかん巡り (ちくま文庫)

日本各地の「新宗教」の総本山を訪ね、その行事に参加し、参加者と世間話を交わし、時には「教主」にインタビューをもとめ、あるいは「教主」より「取次」なる宗教的カウンセリングを受けたりしながら、日本におけるある種の宗教文化をルポルタージュしたもの。天理教金光教、大本、世界救世教真如苑、善隣会など、約17の宗教団体と民間宗教が語られる。

序文からして言葉に響きがあるのだが、そこで著者はこのように語る。「日本は単一文化的な国だというが、本当にそうなのか。私たちにはよく見えていないだけで、実際はけっこう多文化的なのではあるまいか。とくに新しい視点だとも思わないが、おおざっぱにいえば、私の関心はそのあたりを向いていたといえる。」本作では「私たち」から見た「異国」、すなわち新宗教の世界が、ある種の体験と経験を持って描写される。その雰囲気は、なんとも典型的ではあるのだが、まず聞いて見て理解をしてみようとする、とても堅実なものなのである。正直言って(大学のころなぜか京都建築見学の途中で立ち寄った)天理教の総本山なんて、日常の経験からすれば異様かつ独特なものでしかなく、明らかに「我々」とは異なった世界として感じられることが「普通」であると思われるのだが、作者はそこについては極めて慎重であり、その対象を自分の言葉で確かめることで、穏やかに(部分的には多生乱暴な点もあるが)その「他者性」を同定して行く。これはなかなか不思議な経験で、確かに本書を思わず手に取った理由は、そこで見た天理教の神殿内部が懐かしく、またそのほかの宗教建築や宗教者たちの写真が「エキゾチック」であったためなのだが、しかし読んでいるとなんとも人間の自然な行いを見ているような気になってくるのだ。まあ、身近にそういうことを信じている人がいたって別に構わないし、ある種の特殊な宗教的儀式の様式は神道だろうが仏教だろうが存在するわけで、別におかしいわけでもない。と、こんなナイーブなことを考えながら読んでいると、一方ではやはりこれは精神錯乱の一種なのではないか、このシステムを頭脳明晰で悪意に満ちた人が利用すれば非常に巧妙に収奪行為が行われるのではないかと、どきっとする瞬間もあるのである。しかし、これは「世の中にはいろいろな考え方をする人がいる」と理解してしまって良い記述なのだろうか。なにか、もう少し面白い気がする。本書は、新宗教の中心地とその周辺で見出せる「他者性」とは、実は「私たち」とは連続的な関係にあり、それだからこそ「私たち」は「私たちの」殻を打ち破ることができる、もしくは想像された共同体を相対化出来る視点を打ち出すことができる、と述べている(ように思う)。しかし、その先にあるものはなにか。その「新宗教」とは、やはり強固な「我々」で固められた他者性と想像された共同体の最たるものではないか。その意味では、完全にお稲荷さんしんこうや不動尊信仰のような、伝統的宗教形態に極めて類似した受容のされ方をしている(と少なくとも描かれている)辯天宗のあり方は、とても興味深く、また考えさせられる。何はともあれ、文章は多少上滑りする点も見られるが、全体としては落ち着いていてしかも気が利いている、というかサービスが良い。また、感傷的に物事をまとめることを良しとしないような態度が感じられ、非常に共感できる。笑えない冗談も各所にちりばめていてとても良く、非常に楽しく読めた。今年も最後になってこんな素晴らしい本に巡り会え、とても良い年でした。