斎藤美奈子「妊娠小説」

妊娠小説 (ちくま文庫)

妊娠小説 (ちくま文庫)

日本の文学には「妊娠小説」というジャンルが脈々とあったのだ、という主張のもとに、近代文学以降、主に戦後小説を「妊娠小説」的にどのような小説であったのか分析した本。快著。

出だしからして凄い。「日本の近現代文学には、「病気小説」や「貧乏小説」と並んで「妊娠小説」という伝統的なジャンルがあります」ですよ!全体的な構成としては、「妊娠小説のあゆみ」の題された第一部では「妊娠小説」の発生と歴史的変遷が解説され、第二部「妊娠小説のしくみ」では妊娠小説の構造が分析され、最後の「妊娠小説のなかみ」ではその定型的な表現と構造から「妊娠小説」を「妊娠小説」たらしめている要素が批判的に分析される。俎上に上げられるのは森鴎外の「舞姫」にはじまり、現代では石原慎太郎の「太陽の季節」、三島由紀夫美徳のよろめき」、川端康成「山の音」、柴田翔「されど われらが日々−」、村上春樹風の歌を聴け」、丸谷才一「女ざかり」などなど。これらの小説がいかに定型的な女性と妊娠と男性の逃避と自己正当化の図式を使い続けてきたのか、次から次へとなで切りにされる。斎藤氏による物語の読みの典型的な雰囲気は、「こんなにもっともらしく書いてはいるけど、妊娠小説というジャンルから見ればこれこれの描写はたんにあれそれを難しく言っただけにすぎず本当はこんな単純な事をいっているのです」という感じ、ある意味単純な構成である。しかし、はからずもずいぶん緻密に組みあがってしまった「妊娠小説」体系は(メンズ系妊娠小説、レディス系妊娠小説、母子家庭創成譚など構造別分析や、「妊娠濃度」分析など)、異常なまでの説得力を持って小説の慣用的な読みの構造を突き崩し、信じられないことに全く気づかなかった(そして全く新しくない)読みの世界を引きずり出してしまうのである。そして「おわりに」に至っては、妊娠小説マーケットがなぜこのような興隆を見るに至ったのかが分析され、1)生産者の側に強い動機づけがあった、2)消費者の側に潜在的な需要があった、3)妊娠中絶にまつわるこの国固有の文化的土壌があった、と説明される。本作は極めて転倒したというか、ねじくれた作品だと思うのだが、おそらく作者は「妊娠小説」というジャンルをでっち上げることによって、意識されずに脈々と受け継がれてしまっている偏見と差別の歴史を洗い出している(斎藤氏がいわゆる「フェミニスト」、または「フェミニズム」に関して深い知識を持つことは明かである)。しかし、作者はそのような意図には全く言及せず、むしろ「本書は、ひらたくいえば、ある種の文学製品に関するバイヤーズガイドないしユーザーズハンドブックのようなもの」といってのけるのである。この、あくまでひねくれた態度にこちらはまたしても頭をひねらざるを得ないのだが、おそらく彼女は単に物事をある視点から見ただけだよ、と言いたいのではないか。「フェミニズム」とは、ある種のラディカルな考え方ではなく、またはそのようにとられる「フェミニズム」には大して関心が無く、自分は自分の正しいと思う見方で世の中をみるのだ、そうしたら、こんなに変なことがあるよねえ、と作者は(しつこく)語りかけてくる。そして、このような語り口には、非常に強い説得力を感じてしまうのである。面白かった。