閑話休題:最近のアクセス数とブログの評判、並びにジーコと失われた4年間について

アクセス数については(いつぞやの閑話休題に述べたとおり)相変わらずの低空飛行を続ける読書記録だが、最近多少アクセス数の上昇が見られる。かといって数百や数千ではなく、たかだかユニークアクセス数が35から70になった程度ではあるが。このブログは、本の置き場所が無く泣く泣く古書店に売らざるを得ない現状を反省し、せめて本を読んだ時にこころに浮かんだことどもを記録しておきたいと思ってはじめたので、アクセス数が上昇しない、つまり他人に読んでもらわないことには一義的には問題はない。むしろ、気になるのはどのような人がこのやたらマニアックな読書の記録を読んでいるのか、ということである。良く聞かれることに、いったいどのような本を読んでいるのかと言うことがある。たいていの場合、ぼくはミステリー中心にと答えるのだが、そういうと内田康夫赤川次郎かと問われ、大変に困惑する。同時に、読書の記録を見てみると、一般的にミステリーと定義される物ばかりをよんでいるわけでもなく、いわゆるSFやいわゆる(しつこいが)純文学も読んでいると言えば読んでいるのである。結局の所、文章に色気があり、充分に時間をかけられ推敲されたことが文面から分かるものを選んで読んでいるわけで、それはミステリーと必ずしも分類されるものに限らず、また同時に極めて個人的な趣味が反映されることになると思うのである。それゆえ、このような記録を多い日には70人もの人が読んでいるのかと思うと不思議でたまらない。どんな感想を持つのか聞いてみたいくらいだが、不思議とこのブログにはコメントが残されないのでさっぱりわからない。

それはさておき、最近二人の人から、「誉めている本より貶している本の方が読んでみたくなる」と言われた。これには大変大きな間違いが二つあり、まず僕は誰かの本を貶しているつもりは全くない。もしそのように読めるとすれば、それは自分にとって楽しくない本を買ってしまい、しかも時間を費やして読んでしまったことに対する自分への怒りが表現されているのである。これは、作者や作品に対する意見ではない。だから、僕が否定的なコメントをした本を読んで楽しい可能性は、極めて大きいのである。次なる間違えは、僕が熱狂的に薦める本は本当に面白いのだ。そのような本を書いている著者には、今後もせっせと本を書いてもらわなければならない。そのためには、せっせと本を買い、作者に印税収入を支払い、物理的かつ精神的な応援を行い、執筆活動に専念してもらわなければならない。公共図書館古書店の役割を否定するわけではないが、皆さん、是非本を買いましょう。絶版が相次ぐ河出書房は、もっと版を継続させなければならない。三一書房ももっと頑張ってもらいたい。中公文庫も素晴らしい本をちゃんと売り続けてほしい。そのために、僕は本を買うのです。昼飯ぐらい抜いたって良いではないか。一冊の本が買えるのであれば。残念ながらみすず書房や法政大学出版会までには、応援の手がまわらないのであるが。

ところで本当に関係ないが、ジーコはいったい何だったのであろうか。監督業もろくに出来ず、最後のコメントは「選手が悪い」、この4年間は本当に失われた4年間だった。経営者や上司としては、失格どころか欠陥商品的に役立たずの見本のような人であった。しかも気持ちが悪いのは、日本のマスコミは「ジーコは選手が考えることを奨励したが、選手はそれについて行くことが出来なかった」などと、意味不明なコメントをしているところである。思うに、日本的組織社会の悪弊を、見事に利用し、かつ体現したのがジーコだった。リーダーシップはとらず、明確な方針も示さず、最終的な責任もとらず、何もしない。その結果がこのようになるのは、ある意味始めから分かっていたことなのである。この一連の顛末を顧みるたびに、日本的組織社会の病巣の根の深さを目の当たりにさせられ、鈍い頭痛のような感覚と共に後味の悪いため息をつかざるを得ない。おそらく日本代表がある一定のレベル以上に達することが出来ないのは、身体的問題より社会的問題にその原因がある気がしてならない。まるで関係ない話を二題、お粗末様でした。