柳広司「トーキョー・プリズン」

トーキョー・プリズン

トーキョー・プリズン

第二次世界大戦終結直後の巣鴨プリズンに、戦争で失踪した友人の行方を調べるためにやってきたニュージーランド人の退役軍人かつ元探偵は、調査と引き替えに一人の囚人の助手となることをもとめられる。その囚人とは元捕虜収容所の所長で、戦争中の捕虜虐待容疑で死刑判決が確実視されていたのだが、本人が記憶喪失に陥り、自分がなぜそのようなことをしたのか全く理解できずに苦しんでいた。図らずもこの人物を死刑から救おうと努力するうちに、元探偵の目の前には様々な物事が現れては消え、真実や正義、そして歴史の意味が揺らぎ始める。


おそらく現在もっとも切れがあり質の高い作品を生産している推理作家の一人は、間違いなく柳広司氏だと思うのだが、本作も予想を裏切らず、むしろ予想以上の力強さを感じさせてくれる、極めてクオリティが高く緊張感にあふれた作品でした。冒頭すぐに元捕虜収容所所長が告発される理由が列記されるのだが、それはあからさまに文化的差異が反映されたもので、おそらく正しくないのだろうと見当はつく。しかし、柳広司は当然そのような展開に対する読みは考慮に入れた上で、さらに物語の構造とまなざしのありかを展開させて行く。


登場人物も極めてトリッキーである。日系二世で両親は米国で差別の対象となったアメリカ軍兵士、元捕虜収容所所長の婚約者で長崎で被爆した女性、極めて人当たりが良く好人物だが、戦争時代は捕虜虐待において悪名名高かった日本軍兵士、戦争中も日本で布教を続けたアメリカ人宣教師など、ほとんどの登場人物が自分の正義、自分の正しさを主張しつつ、全ては当然のようにかみ合わず、正義のありかは宙を浮き続ける。そして、何よりも見事なのは、この「正しさ」の保留、もしくは判別不能性が、本作の推理小説たる本質的な構造に深く関わっているところなのである。かといって、物語を相対性の海に投げ出し、素知らぬ顔をして歩き去るようなポストモダン的展開が待ち受けているわけでもなく、作者はしっかりとした、むしろ毒々しくもある結末を最後にぶちまける。久々に爽快な小説を読んだ気がしたのでした。