サイモン・ウィンチェスター「博士と狂人」

博士と狂人―世界最高の辞書OEDの誕生秘話 (ハヤカワ文庫NF)

博士と狂人―世界最高の辞書OEDの誕生秘話 (ハヤカワ文庫NF)

英語辞書の代名詞とも言えるOEDの制作過程を、編集の中心となったマレー博士と多量の用例を提供した人物の二人の人生に焦点をあててつづったもの。ちなみに、この後者の人物は、アメリカ軍退役軍人なのだが、イギリス滞在中に被害妄想に襲われ、路上で男性を射殺したために、その後の人生全てを精神病院の収監されて過ごすこととなった。


「ノンフィクション」とは思えないほどの、劇的なエピソードの連続で全く飽きることなく読み通してしまった。話としてはなんと言うことはない、ある意味退屈な辞書編纂の物語なのだが、本書で中心となるのは、前述の精神病院に収監されているマイナーという男性の話で、これがなかなか考えさせられる内容なのである。彼が殺人事件を起こしたのは1872年のことであり、当然のことながら精神疾患に関する医学的に根拠のある治療など行われているわけもない。本書はこの事件の後のマイナーの人生を丁寧にたどってゆくのだが、その記述は図らずも近代的医学が成立する以前の病院の物語、特に精神病院の描写になっているところが面白い。


おそらく、精神病院に関するこのような記述は、いまのところほかのどこにも見あたらない。しかも、彼が収監されていたのはベスレヘム・セント・メリー病院なのである。あの精神病院の代名詞となったベスレヘムが、ランベスという場所に移設された後、マイナー博士は収監されることになった。病院の歴史といえば収監の歴史であり、収監の歴史といえば精神病院か伝染病病棟の歴品な訳なのだが、こんなところで昔学んだ名前に出くわすとは思わず、非常に懐かしく感じたのであります。


さて、本書の主題であるOEDに関しては、それほど愛着があるわけではないので思うところは特に無かったのだが、それでもなかなか読み応えのある素晴らしい本でした。しかし、この翻訳はいかがなものか。訳者を見ると、「発想する会社!」など、素晴らしい本を訳していらっしゃる方なのだが、いかんせんこれはビジネス書なんだよなあ。読み物としての言葉遣いにはあまり重きを置いていないらしく、直訳調だとどうしても生じてしまう日本語論理的な矛盾の感じられる記述を、結構そのまま残してしまっている。語尾にも本当に芸が感じられなく、淡々と訳している。語られている以上「ノンフィクション」等というものは存在しないという意味では、もっとお話らしく、こなれた文章で読みたくはあった。巨匠平野甲賀によるカバーデザイン(ハヤカワ文庫)は超かっこよい。