好井裕明:「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス

「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス (光文社新書)

「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス (光文社新書)

数量的な変数を数えるのでなく、話された内容や仕草など、いわゆる「質的」と言われる物事を観察の対象とする「質的調査」について、その構造とマナーを説いた本。


論旨は理解できるし、ある程度は納得できるのだが、いまいちピンと来ない。まず、第一章では数量的調査の質について疑問が提示されるのだが、基本的には質の悪い調査の質を問題としているために、極めて当たり前の事柄を述べている気がする。指摘事項も、社会心理学の教科書を見れば全て書いてあるのではないか。数量的調査と質的調査の違い、またそれぞれの長所と短所は、まさにその「質」にあるのであり、もっと鋭く、端的に議論ができたと思う。


質的調査に関する説明の組み立ては、非常にわかりやすく、かつ妥当なものだと感じた。しかし、いったい何のために質的調査をするのか、その結果にはどのような「意味」があるのか、なかなか見えてこない。「あるものになる」と題された章では、大学院生が大衆演芸の一座に弟子入りし、その中での葛藤をレポートした論文が取り上げられるのだが、この位置づけも分かりづらい。著者は、このエスノグラフィーを、「役柄と自分の存在との距離や隙間」に対するリアルな問いであると位置づけるが、引用部分を読んで感じるのはむしろ行き詰まった大学院生の鬱々とした日記であり、社会に対するリアルな問いも希望も救いも大して感じられない。いったいこれを読んで、何を学べば良いのか。就職すれば誰でも感じることなのではないか。


「「あたりまえ」を疑う」という章で書かれていることもいちいちもっともなのだが、なんだかこれも不思議だ。そもそも、「あたりまえ」を疑わない社会学者なんていてもよいのか。しかも、著者もそこまで厳密に「あたりまえ」を疑っていないような気がする。例えば同性愛者の人々を指す人称代名詞に「彼」が使われているのだが、女性がいてもおかしくない文脈である。また、カテゴリー化の権力を語る一方で、「障害者」というカテゴリーがカッコなしに使われているのだが、このカテゴリー化については何か思うところは無いのだろうか。そこまで問うのはフェアでも無く、揚げ足取りだと言われるかも知れないが、そう問いたくなる雰囲気が感じられてしまう。


おそらく全体を通しての違和感は、「社会」を自分が抜け出すことのできない視点から見たときの息苦しさや違和感が伝わってくることがなく、かつ「正しい質的調査」や「正しい社会学」があるかのような、極めて教育的な態度が感じられることに原因がある気がしてきた。ただ、確かに質的調査の「意義」や「使い方」は極めて議論が難しいところでもあり、このような入門書を書くと言うことも大変な作業であることは理解ができるのであるが。