高橋源一郎「一億三千万人のための小説教室」

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

小学校で二日間にわたり小説の書き方を教えた体験に基づき、小説の書き方を極めて平易でやさしくわかりやすい言葉遣いで述べたもの。話は途中で小説の書き方から大きく飛躍してゆき、むしろ素晴らしい小説とはなにか、そして小説の作る宇宙とはどのようなものか、という、抽象的なるもなにか感動的な地平にまで広がってゆく。


これは頓狂氏が絶賛していたもの。買って読んで驚愕した。文章がとんでもなく美しい。ひとつひとつのことば、そしてそのことばのつらなりあいや絡み合いによって生じる響きが、とてつもなく美しく感じられる。例えばこんな感じ。「その二日間の授業をここで再現するわけにはいきません。小学生を相手にする授業は、ある意味で、あまりに高級すぎて、紙の上で説明するのは不可能なのです。」はたまたこんな感じ。「書く前の沈黙。一行目を書きはじめる前の静かな時間。なにかがはじまるのを末緊張の時間。そして、確かに、この瞬間が、はじまりの時だ、と感じて、小説家は書きはじめる。」さらにこんな具合。「たましいのことは大事だけれど、たましいのフリークス(奇形)がいること、を私たちは忘れてはならない。そして、その、たましいのフリークスの呟きを聞くことのできる耳を持たなくてはならないのです。」いいなあ。美しいことばを書き写すのは本当に楽しい。


内容については、大きく言えば二つの主張からなる。一つめは「小説を書くな」ということ、二つめは「まねをしろ」ということである。この二つの主張にも、深く共感した。結局のところこの本は、高橋源一郎氏が、書こうとする人に自分の読みたい本を書いてほしいと願ったために書かれたアドバイスである。それが、無性に美しく感動的に思えてしまうのは、おそらくそれが心の内側からわき出る、祈りのような、叫びのようなことばだからなのだ。そしてその叫びの鋭さゆえに、話は自然と「小説とはどのようなものか」、または「素敵な小説とはどのようなものか」という問いかけへと横滑りしてゆく。それもまた楽しい。


また、全編にわたり「鍵」ということばがちりばめられているが、これもなかなか素敵。例えば、「?小説は書くものじゃない、つかまえるものだ」なんて、力強いしとても良く理解できる。この「鍵」はケストナーの「エーミールと探偵たち」の前書きを引用しながらかかれているのだが、この前書きがまたどうしようもなく美しい!とりあえずこの本から読んでみなくては。ずいぶん昔に読んだ覚えがあるが、どんな話か全く憶えていないなあ。もとい、この「小説教室」ははからずも僕が読んだ高橋源一郎氏の本の中でいまのところ最も美しく楽しく素敵な「小説」でした。こんなものを見せつけられて小説を書き始めようと思える人がいるわけないとも思う。そこがまた楽しい。