村上春樹「東京奇譚集」

東京奇譚集

東京奇譚集

ゲイの調律師がふとしたことで知り合った中年女性の身に降りかかった出来事、サーファーの息子を鮫に食われたピアノ弾きの女性のはなし、突然失踪した夫の捜索をその妻に頼まれた男のはなし、素性の分からぬ女性を好きになりそして分かれた男のはなし、名前を猿に盗まれた女性のはなしを集めた短編集。


村上春樹氏の小説には偏見に近い感覚がある。無意味にスノッブで極めて空虚、その「何ものこら無さ」が好きな人を狙った極めて意識的なマーケティングをしている、という雰囲気が、その文章からにじみ出ている気がして、とても安らかに読むことはできない。この本の最初のほうのはなしだってそうだ。ゲイの男性が女性に言う。人生の選択にまよったとき、形あるものとないものがあったばあい、自分は形の無いものをとるというルールをきめている、と。なんて薄っぺらいことばなんだ。こういう無責任に無根拠で耳あたりの良いフレーズに心惑わされて、人は切除しなくても良い乳房を切除してしまったりするんだ。かっこよいのは別に悪いことではないが、ここまで本格的に雰囲気があると、むしろ悪質だ。次のはなしだってそうだ。なんだ、この現実味のない主人公は。人が死んだ悲しみなんて、こんな文章に描かれるわけがない。。。と、思って読んでいたのだが、思わず物語に引き込まれてしまう。


あー、これは面白いや。無神経で無意味なクリシェが連発されるわけでもなく、根拠のない教訓がかっこよく語られるわけでもない。静かに、淡々と息子を失った女性の世界が構築されてゆく。しかも、その舞台の設定も素晴らしい。つぎの物語はピンとこなかったが、その次がまた良い。ある意味、わかりやすいというか、練り込まれていないというか、ひねりのないお話だが、その素朴な手触りは極めてプロフェッショナルだ。最も素晴らしかったのは最後の「品川猿」で、ものがたりの語られ方自体にごつごつとした肌触りとなんともアナクロニスティックな不細工が感じられ、なんとも懐かしい。物語もひねくれた落とし話風であり、その素直ではない結末にはなにか救われるものを逆に感じた。あー、面白かった。