谷岡一郎「「社会調査」のウソ リサーチ・リテラシーのすすめ」

リサーチ・リテラシーのすすめ 「社会調査」のウソ (文春新書)

リサーチ・リテラシーのすすめ 「社会調査」のウソ (文春新書)

そもそも「「心理テスト」はウソでした。」を読もうと思っていたところ、某所でむしろこの本を読んだ方が良いと書かれていたため、読んでみた。大学関係者、マスコミ、官公庁の調査が、如何に信頼性に乏しく、むしろ悪意を持って設計されているのではないかと言うことを、社会調査の基本的な手法論をもとに論じた物。


議論は極めて妥当、根拠も信頼が置ける。使われている例も極端な例は少なく、非常に説得力があって勉強になった。特に、「社会調査」自体には間接的に関係する事柄であるが、同一の選挙結果を全く異なる論調で論じた二つの新聞の一面を載せたページには、肌寒さを感じさせるものがあり、著者の卓越した知識量と鋭い批判的視点には敬服する。


一方で、社会調査の専門家ではないが専門的な教育を受けたことがある僕としては、多少違和感があった一面もある。以下の議論は、本書で述べられている事を理解し、完全に賛成した上でのものである。一つには、「社会調査」が何を明らかにできるのか、ということについての説明が無い。「AならばBである」ということの妥当性については、それ自体の妥当性と、それがどのような状況でも成り立つのかどうかという事に対する妥当性の、二つの妥当性が存在するはずなのだが、それについての言及が無いため、多少「社会調査」自体に対する評価が厳しい物になっていると感じた。また、そもそも「AならばB」という「因果関係」は、調査者が何かしらの操作をしない限り、調査票での調査では証明できないはずなのだが、読んでいる限りそのあたりの言及が無い(例えば、「速度制限が60キロ以下ならば事故が少ない」という事を証明するならば、調査者が速度制限を変更し、その前後でデータをとる必要がある)。


また、これは本書と言うよりは「社会調査」自体に対する疑問なのだが、一体充分な妥当性のある調査という物は可能なのだろうか。また、それができたとして、何の意味があるのだろうか。前者に関しては、是非この本の中で「妥当な調査」を示してほしかったところであるし、後者に関してはちょっと考えてしまうところである。例えばある政策について、日本在住の選挙権を持つ人がどれくらいの割合である意見を持ったとして、それが何を意味するのであろうか。むしろ、重要なのは「何を正しいとするか」という思考であり、それはその意見を支持する人間の多寡とは全く関係が無い。これは倫理学と呼ばれる学問の範疇でもあり、かつ政治的な問題である。もし、学者が存在する意味があるとすれば、忙しくてこのような問題を考えている暇がない人に替わって考えることであると思うし、それを説得力をもって説明することであると考える。と、こんな事を考えて読んでいると、「統計学者」というのはなかなか「因果」な職業だなあと思えてしまった。