森達也「職業欄はエスパー」



ドキュメンタリー作家である著者が、3人の「超能力者」の日常に焦点を当てたドキュメンタリーを作成するため、取材をし、ディレクターと交渉し、企画が没になり、オウム事件が起こり、超能力者の一人が離婚して再婚し、再びディレクターと交渉して企画が通り、大槻教授にインタビューを断られたりする数年間を描いたルポルタージュ

森達也は、ドキュメンタリーとは演出もあり編集もされる、極めて作為的な「現実」の切り取り方であるという立場をとる。その筆者が、これまた極めて恣意性の高い一人称のルポルタージュ形式という、一見「事実」を描くかに見せて、決してそこには保証書付きの「事実」など存在しない、つまり何が嘘でほんとなのかは原理的に分からない形式を選択して本書は書かれている。このみごとにねじれきった構成も面白いが、なんとなく森達也がそのことを極めて慎重に意識しながら、本書の記述を構成しているような雰囲気も最高。とてもわくわくする。自然、森達也の独白は感情的で焦点が定まらず、ふわふわしている。ここがまた、たまらなく共感ができる。3人の「超能力者」に深く関わり、信頼を成立させ、かつ撮影してゆく中で、超能力を「信じる」「信じない」という二分法に答えが出せないでいることに、筆者は気づく。しかし、その「曖昧さ」を残すこと、わりきらないことこそが、報道に携わる物として重要なのだと自戒する。ここにいたって「超能力」というものが、本書の主題なのでは実はなく、「報道」「マスコミ」というイデオロギーの中での躓きの石として提示され、本当に俎上に載せられていたのはまさにこの「報道すること」「伝えること」の難しさと、それをになう者の問題意識のあり方なのではなかったのかと、感じてしまったのである。それが筆者の本意であったのかどうかについて、自信があるわけではないが。しかし、本書の特に後半に至って、森は「著能力者」の肩を持ち、超能力否定論者の議論を批判してゆくが、おそらくこれは森が「超能力」を信じているという訳ではなく、取材対象との関係と距離が変化したことが、自分の態度に変化をもたらすことは自然であるという、彼のドキュメンタリー作家としてのあり方の具体的な表現例として理解した。なにかと書いてはみたが、とにかく最高に面白い本でした。なんとなく弱気で負け犬っぽい著者の語り口も素晴らしい。