石持浅海「セリヌンティウスの舟」

セリヌンティウスの舟 (カッパノベルス)

セリヌンティウスの舟 (カッパノベルス)

危機的状況を共有した6人のダイビング仲間がその一人の家にあつまり、酔いつぶれて朝を迎えるとそのうちの一人の女性が自殺している。その葬儀の後に、また同じ家に集まりなぜ彼女が自殺したのか、また彼女はいかなるメッセージをその死に込めたのかを、延々と議論する。

前作で何とも言えない違和感を感じ、おかしいなあと思っていたのだが今回はその感が強まった。なんというか、僕にはここで展開されている議論が不思議でたまらなかった。そもそも自殺した女性への追悼の意を込めた議論ということ自体に無理があるし、なぜか登場人物たちが驚愕する新事実の数々も、あんまり鋭さがないというか、普通そんなに驚かないのではないかと思ってしまう。残念ながら、走れメロスの比喩もピンと来ない。こののめり込め無さの原因は、やっぱり物語に無理があるためではないかと思ってしまう。考えてみれば、話としては人の家で勝手に自殺する自意識過剰の迷惑な人の物語だし、その仲間たちの結びつきはいかに危機的状況だといってもそんなに強いわけは無いのではないか。しかも、最終的に語られる彼女からのメッセージは、これまた迷惑以外の何者でもない。このような論理の展開だけで議論が進む話と言えば、どうしても西澤保彦氏の「麦酒の家」を思い出してしまうし、その爽快さや明晰さにこの作品は見劣りがしてしまう。その大きな理由は、「感情」とか「信頼」とか、議論の俎上に登りにくい、つまり作者の視点に共感することがおそらく技術的に非常に難しいものを、その論理の中心に置いたためではないかと思う。