森達也、森巣博「ご臨終メディア」

オーストラリア在住の博打打ち兼作家森巣博と、「A」、「A2」という二つのオウム真理教を追ったドキュメンタリー映画ですっかり日本のメディアから黙殺されるにいたったドキュメンタリー作家森達也の、日本のメディアに関する対談。

対談形式の文章は、議論が成立していない場合が多いのでほとんど読まないが、これはおそらくかなり緻密に校正が行われていて、非常に良く書かれている。形式としては、森巣博が幾分乱暴な言葉で質問を投げかけ、その質問に森達也が非常に丁寧に答えてゆくもの。ところが読み進めるうちに、森巣博の方がむしろ専門的な知識をベースに極めて冷静な議論を展開し、森達也は静かに感情的な議論を始める。しかししかし、これは面白かった。二人の間で取り上げられる議論がいちいちうなずける。例えば、森達也は言う。メディアでの報道は、本来責任なんかとれるはずがないと。例えばアメリカ軍がコーランを冒涜して、抗議で死者が出た。その死者に対して、メディアは責任がとれるわけがない。しかし、その報道が死者を生みかねないと言うことを受け止め、葛藤の中で仕事をすべきであると。また、公平性や中立性なんて言葉を疑いもなく使ってはいけない。なぜなら、いったいなにが「公平性」であるのか、決めること自体が恣意的である、ということを忘れているからだ、とも語る。しかし、読めば読むほどいちいちうなずける。僕もオウム信者の住民票を受理しない自治体が現れたとき、それは憲法違反だと直感した。しかし、そのことを指摘したメディアは僕は見つけることが出来なかった。在日外国人に参政権を、難民に永住権を与えない癖に、「タマちゃん」なるアザラシに住民票を発行するのは、グロテスク以外の何物でもない。しかし、嬉しそうに報道していたのは誰だ。今回の小泉参拝にせよ、なぜインタビュー記者は政教分離の原則を問いつめられないのか。最近、地方公務員と話をすることが多いのだが、彼ら/彼女らはやはり住民からの抗議を恐れる。しかし、抗議が来ることを恐れ、回避していては良い仕事が出来ない、むしろ、それぐらいの気概で仕事をすべきだというこの本の主張は、説得力がある。また、非常に共感したのは、すべての悪意はむしろ善意から始まり、それが無意識なだけに極限的に肥大するという森の意見である。「被害者の事を考えろ」という人に限って、本当に自分が何を感じているのか、問われたときには答えがない。「善意」だと信じることで、考えること、疑うことがどんどん抜け落ちてしまう。これは、むしろ非常に危険で悪質な行為なはずだ。しかし、相変わらず森巣の言葉遣いは乱暴ながらも極めて理性的で論理的な態度には驚かされる。