小熊英二「単一民族神話の起源 <日本人>の自画像の系譜>

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

戦前から戦後に至るまでの「日本民族論」の系譜について、その妥当性ではなく誰がどのように語ったのかを、一人一人の人物に焦点をあてながらまとめた大作。

このボリュームだと議論をまとめることは無理なので、記憶に残った事柄をとりとめもなくメモする。この著作の一つの愁眉は、「日本民族」というものが、現在の保守系論客によって主張されるような「単一民族」としては、少なくとも敗戦直前までほとんど論壇では認識されず、むしろ「混合民族」として認識、または喧伝されていたという事実である。それは、ひとえに日本帝国が他民族、特に台湾、朝鮮、中国に侵略し、併合してゆく中で、その侵略を論理的に正当化するためであった。その「混合民族」とは、その時代の言説によれば「家族国家」主義といえるものであり、これは他者を想像することとは最も遠い地平にある論理で、その中ではゆるやかな「みんな」という集合体が基礎となった。これは、戦後「単一民族」神話が浸透する中で同じような構造を働かせ、象徴天皇制と他者の存在を許さぬ、また個人が個人たることはむしろ悪であり、当然個人の責任という議論が生じない社会のとらえ方を、柔らかく柔らかくうったえ浸透させてゆく原動力となった。本書は、以上に述べたような論理の道筋を、その時代時代にあらわれた特徴的な「知識人」の著作や論文を参照することにより、淡々と追ったものである。それゆえ、一つ一つの考え方に批判的な論考が加えられることはない。むしろ、筆者はいたずらにそのような議論を批判することは自分の任ではないと語る。その気持ちはとてもよく分かるのだが、しかしなにか気持ちが悪い。本文中では極めてわかりやすくそれぞれの論が検証されていて読みやすいのだが、それ故にすでにその時点で価値観から無縁の記述ではない。なにか、踏み込んでいるのに違うと言っているような違和感を感じる。それはそんなに問題となるほどの事でもないが、社会学者としてはなにか危うさを感じさせる態度だ。それ以上に暗澹たる気分にさせられるのは、当時の「知識人」の議論というものが、今から見ればではあるが、全く理性的でも論理的でもないという事だ。しかも、それぞれは錚々たる地位の持ち主であり、一般的に名をなしたアカデミシャンたちばかり。思考というものの力弱さと、アカデミズムの脆弱さに、いまさらながら気が滅入る。しかし、なぜ人は自分を特別視したがるのだろうか。しかも、そのときになぜ「自分が」とは言わず、「我々は」などと語り、同時に「我々」に含まれない人々を蔑視してしまうのか。あまりの毒々しい記述の連続に気分が大変暗くなった。