V. S. ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー「脳のなかの幽霊」

脳のなかの幽霊 (角川21世紀叢書)

脳のなかの幽霊 (角川21世紀叢書)

UCSDの脳認知センターの教授兼所長、かつソーク研究所の兼任教授でもあるラマチャンドラン博士が書いた、人間の認知と脳の構成に関する本。内容は幻肢、錯視、幻覚、盲点、半側無視、疾病失認、カプグラ・シンドローム、笑い等多岐にわたるが、基本的には「私」を規定する諸要因を深く掘り下げ、研究の対象にしようという強い意図に貫かれている。

一読しての感想は、神経科学者はその職能の特質状、人間のある一つの特徴を、それをのぞいた、いわば補集合的な状態から見るということである。人間から何かがなくなったらそのとき何が起こるのか、それによってその「何か」を特定しようという試みがなされているように思う。同時に、このナラティブでわかりやすいながらも厳密な議論に対する気配りを忘れない本書に貫かれている特質は、現象だけではなくメカニズムを理解しようとすること、それによって脳の仕組みをモデル化し、ブラックボックス化したり認識論の世界に議論を還元することなく、あくまで冷静に物事を理解しようとする姿勢である。自分が考えている主体(脳)でもって脳をモデル化しようとするのは、なにかおかしな事態を生じさせるような気もするが、同時にその必然的に入れ子状の思考スタイル(これはそう感じる、という程度の意味だが)は、世界をあくまで構築的に捉えようとする意図とシンクロし、極めて力強い。そこから導き出される議論には説得力がある。ここでは「自己」の持続的・安定的な存在ですら、限定付きではあるが却下される。でもこれは、本書の記述を読めば非常に実感をもって理解できる。さて、忘れないうちに疑問点を二つメモ。もとから手が二本とも極端に短い人がそれでも手振りの幻肢があるということについて、著者はある種の遺伝子決定論的な態度をとるが、これは本当か。手振りが極めて文化的に存在することを考えれば、視覚的に学習された手のイメージが、後天的に幻肢を導いた可能性をどのように排除するのか。また、電話以外では自分の父親を父親であると認められなくなった青年について、声が聞こえないようにガラス越しに電話で話した場合、いったいこの青年は父親をどのように認知するのだろうか。聴覚的な認知と視覚的な認知の矛盾が生じたとき、優位に立つのはどちらか。あと、最後の章の「クオリア」については、言葉が定義に先行するような議論でよく分からなかった。また養老孟司氏の解説は、「インド的」なる概念を持ちだしてくるあたり、なにかまとはずれな気がしてならない。