高橋哲哉「国家と犠牲」

国家と犠牲 (NHKブックス)

国家と犠牲 (NHKブックス)

前著「靖国問題」では、靖国にまつわる問題を丁寧に解きほぐしながら問題点を整理していったのだが、本著ではその議論の過程で明らかになった「国家」と「犠牲」の関係を、日本の近代史並びにキリスト教とヨーロッパの中世から近現代にかけての歴史のなかから論じ、「国家」が「犠牲」と分かちがたく結びつきながらもそれは決して必然の結果では無いこと、同時に「犠牲」を必要としない国家のあり方について、考察が行われる。

議論は基本的に明快であり、まず現在の日本という国家の「繁栄」が、戦争の死者の「おかげで」可能になったという論理に対する強烈な批判がなされる。高橋の議論はむしろ、「アジア太平洋戦争は、日本の国家指導者達がもっと賢明な判断をしていれば死ななくてもよかったはずの将兵たち、アジア諸国や連合軍や民間人の死者たちと同様、本来ならばしぬべきではなかった日本軍の将兵たちを無惨な死に追いやりながら、日本の惨憺たる敗戦をもって終わったが、それにもかかわらず、種々の歴史的要因が作用して、戦後日本の「平和と繁栄」がもたらされた、というのが実際のところでしょう」というものだ。戦死が「平和と繁栄」のために必要だったするならば、戦死は国家によって正当化される、このように高橋は述べる。一方で、国家の成立には犠牲が伴うという議論が、むしろあたりまえのように語られているのはなぜか。高橋はキリスト教や中世ヨーロッパ、そして第一次世界大戦前後のドイツとフランスの状況を考察することにより、キリスト教が国家と同一化される中で、自己犠牲と国家というものの結びつきが、極めて強く意識されるようになったと説く。一方で、武力を持つということ、常備軍を持つということの、人道に対する疑問を高橋は提示する。それは、国民国家の存在を守るという名目で、戦う個々人はまさに自らが守ろうとしている諸権利を、喪失してしまうということだ。これは、まさに犠牲を国家が必ず必要とするという議論に対する、大きな矛盾となる。議論は必然的に、「犠牲なき国家と社会はありうるか」という問題に直面する。これは本書の最後の議論なのだが、やはり割り切れたわかりやすい答えは示されない。なにか高橋の祈りにも似た呼びかけが、極めて絶望的かつ切実になされて終わる。この結論は、非常に不満が残るという人はいるだろう。しかし、考えることとあきらめないことが非常に本質的なのだというメッセージは、決して悪いものではない。

というように、議論自体はとても納得し感心したのだけれど、本書は論証のために書かれたような物でもあり、多少まわりくどいというか、論文を読んでいるようであり、とても疲れた。でも、なかなか落ち着きのある良い本です。