上野千鶴子「発情装置」

発情装置―エロスのシナリオ

発情装置―エロスのシナリオ

性愛論を議論の骨子としながら、男/女間の性と人格のあり方の非対称性を極めて批判的に論じたもの。構成は1987年から1997年までの間に各所で発表した小論をまとめたものである。


これはすごい。もともと論文集ではないため、筆致はともすれば横滑りしがちだが、そのくせ徹底して議論の妥当性にこだわる謙虚な姿勢は、正直追っかけるのはとても疲れる。しかしとても良い本なので、忘れないうちに議論の要点と疑問点等をまとめておこう。

「序」では「コギャル・ブルセラ」にまつわる言説を批判的に考察しながら、女性においてのみ人格と性が抜きがたく結びつけられている現状に異議がとなえられる。性に対する冒涜が人格を冒涜すると考えられること、そしてそのようなメカニズムが「性の近代パラダイム」のなかで構築された物だとする考え方は、その先鋭さに危うさも感じるが、同時にとても触発的であることも確か。

「性愛・この非対称的なもの」では、女性においては「視られる」ことが、男性は「視る」ことがそれぞれの身体性に還元されてしまったと述べられる。「見る主体」であった男達からは身体性が剥奪され、一方で「見られる」女達は自己解体や自己疎外を経験するという議論には説得力がある。おそらくこの二分法は、多少単純化された図式だとも思うが。日本をしばらく離れ、帰国した際に思う日本の性的表現の氾濫についての議論は、極めてわかりやすかった。


「<対>という病」は、本書の圧巻であろう。日本の「歴史的」な結婚制度についての「神話」を脱構築した上で、上野は性交、性欲、性愛を切り離した上で、性愛を「他者とつながりたい欲望」に裏打ちされた<対幻想>で語ることは、極めてたちの悪い躓きの石であったと述べる。この<対幻想>を振り切ったあとに残るのは、再び性愛と孤独の問題である。

「<対>という実験」では、1970年代から80年代までの少女マンガの世界における少年愛の表現についての議論がなされる。この世界が「対等な性」への実験であったという議論は面白いが、特にそれ以上のことではない気がする。議論の世界のあまりにもな閉鎖性がそう感じさせるのか。そういえば「風と木の歌」を高校の先生に貸してもらったのを思い出して懐かしかった。しかも誰かが授業中に読んでて没収したやつだったような気がするな。


「<近代家族>の精神分析」ではフロイトが徹底的に批判され、同時にニキ・ド・サンファルの精神史がレビューされる。前者に関しては、幸いなことにこのような議論はもう常識となった感がある。後者は非常に情緒的な筆致で、議論が散漫に感じる。

終章である「ヘテロセクシュアルの冒険」では、一転して極めて分析的な上野の議論が冴え渡り、ちょっとついて行くのが難しい。前半は無難なエッセイが数編、後半では一転して「ゲイ」「レズビアン」「同性愛」ということばに対する徹底した議論が行われ、その中で異性愛者もゲイもレズビアンバイセクシャルも、性別二元論的な非対称の世界に拘束された不自由な存在なのではないかという、極めて核心的な議論がなされる。しかし、僕がもっとも共感したのは、フェミニズムの目的に言及した以下のくだりである。「フェミニズムはアンチ・エッセンシャリズムの立場をとっている。セックスが自然だ、セクシュアリティが自然だという言葉ほど、フェミニズムにとって危険な言葉はない。」「セクシュアリティ研究にとって「自然」、「本質」、「本能」は禁句である。DNAもしかり。ゲイ・スタディズが本質主義に向かうとしたら、わたしはそれについても批判的でありたいと思っている。」


多少力が抜けているだけに、力みが無くて言葉はよく響く。一方で、理性的に考え議論することが、時にここまで物事のとらえ方をラディカルに展開させ、日常的な世界から離れてゆくことにとまどいも感じる。同時に、「日常的」な世界がどれだけの思いや悲しみやあきらめを、日々飲み込み隠しているのかということを、逆に実感してしまうことも確か。どんなに考えてみても、結局割り切れない思いは残る。しかし、割り切ると言うことほど危険なことはないし、その衝動をいつも冷静に排除する上野の議論は、やはり力強い。