小川一水「老ヴォールの惑星」

処罰用につくられた迷宮で疑似社会を作り上げてゆく「ギャルナフカの惑星」、電気的なナマズみたいな生物が自分の惑星の滅亡を他の惑星に告げる「老ヴォールの惑星」、地球外知的生物との接触を極めてシニカルに描く「幸せになる箱庭」、とてつもなく広大な惑星に不時着してしまい延々と救援を待つことになった「漂った男」の計四編を収録したSF中編集。


SF,特に日本人作家の書くSFにはトラウマにも近い嫌悪感があるのでほとんど読んでいなかったのだが、新城カズマが予想以上にも良かったので、若手の新刊を読んでみた。しかしなかなか感想が難しい。文章は上手だし物語はそれなりに気が利いている。でも、やっぱりずしんとくる面白さは感じられなかったし、読んでいて少しめんどくさくなってしまった。おそらく物語の展開が多少凡庸というか、自分で用意した枠組みを思わず踏み出してしまうような危うさが感じられなく、とても落ち着いてしまっている。そのなかで、しかしなかなか面白いと思ったのは「幸せになる箱庭」での地球外生命体を描写する場面で、「肩高は1メートル半で、黒光りする外骨格の足に、木の葉のようなものに覆われた、醜い軟質の胴が載っている。首に当たる部分はないが、体の前方に七、八本の触角ないし触手が垂れ下がり、ゆらゆらと揺れている」などと述べられる。この一節をよんで本当に馬鹿馬鹿しくなってしまった。なぜならこのようなものである必然性がまったくないからで、想像のしやすさという意味からは「四角い一メートル四方の豆腐状の物体の底面から二本の足が生え、側面には口が開いている」ぐらいのほうがめんどくさくなくて良いなあ、むしろなぜこうしないのかと思ってしまったのである。


ところが読み進むうちに前述の生命体というものが、探索船クルーの願望が投影された虚構の存在であることが明らかになり、これはなかなか爽快にだまされた気がした。このような「願望の投影」って、ある意味「ジャンル」にカテゴライズされることでその成立が保たれる物語の典型的なあり様なわけで、そういう意味でこの物語は意地悪く読者(と作者自身も)のあり方を描写しているとも言える。でもまあ、このような脱構築もよくある話と言えば言えるわけで、この話で触れられる現実と虚構のない交ぜになった「現実感」の恐ろしさはについては、ディックの多くの前例を超えるものではない。しかし「老ヴォールの惑星」がSFマガジン読者賞とは。。日本のSF読者層と僕の趣味はどうやら合いそうもない。