久間十義「聖マリア・らぷそでぃ」

聖(サンタ)マリア・らぷそでぃ

聖(サンタ)マリア・らぷそでぃ

少女達を洗脳して集団売春させているのではないかと噂される新興宗教と思われる教団を取材し始めたフリーライターが、編集部の意を受けて潜入取材をすることに。すると一緒にいたカメラマンの青年が突然宗教的告白を始めてしまったり、妹をその教団にさらわれたと考えるヤクザもうろうろし始めたりする。そのうちその教団はマスコミと警察から苛烈な扱いを受け始め、突如東京にある本拠地をはなれ、流転の旅を始める。その旅の中で、教団の成り立ちを知った主人公は、だんだんと自分の内にある宗教者としての役割に目覚め始め、教団をもっとも奥深いところから見つめるようになる。

1989年といえばバブルもはじけどこか世の中がよそよそしくなってきた頃に書かれた本だが、僕は80年代を代表する傑作の一つだと今に至るまで思う小説。今まで誰も賛成してくれたことはないが。そもそも河出書房であっという間に絶版になってしまったので、読んでいる人自体が極めて少ないとも思う。文章は悪趣味で軽く、時にまじめな語り口になるがそれでも悪ふざけのような雰囲気が漂う。しかし、この物語のすさまじいところは、常に視点が、というか一つの事柄をみるまなざしの発せられる場所が移動し、事実はその語るものの内なる視点の展開によってその存在自体が大きく疑われてゆくというところである。簡単にまとめれば、始めは極めて批判的に教団を眺めていた主人公が、その教団に取り込まれるとともに教団側から世界を語るという構造なのだが、誰が「正しい」ことを行い、語っているのかは、結局のところよくわからない。また、この「教団」の成り立ち自体が、終戦直後の日本人による「進駐軍慰安の大事業」(RAA)に取り込まれていった女達の迫害の歴史に礎を持つといった、すれすれまで「史実」に基づいて構成された物語によるという、念の入ったひねくれ方である。また、最後には主人公が「はめられた」と主張する「編集者」のノートが「エピローグにかえて」と題されて添付され、現実のあり方はこれでもかと揺さぶられる。文庫版での奥泉光の後書きも、素晴らしい。