上野千鶴子「ナショナリズムとジェンダー」

ナショナリズムとジェンダー

ナショナリズムとジェンダー

戦争と従軍慰安婦問題、そして歴史の語られ方について、「国民国家」、「歴史修正主義者」、「女性史」等をキーワードにまとめられた論考。「国民国家ジェンダー」、「「従軍慰安婦」問題をめぐって」、「「記憶」の政治学」の全三章からなる。

極めて論理的で具体的な叙述。テクニカルタームの使い方にも気が配られ、最近の社会学や哲学の流れに詳しくない私にも非常にわかりやすい。論考自体は常に立ち位置を相対化する努力を払いつつ決して現状俯瞰的ではなく、次々に発生する問題意識に真摯に思考し立ち向かう姿勢は感動的ですらある。感想は以上。以下、記録用に詳述(『』内は本書より引用)。第一部ではまず「歴史」に対する態度が述べられる。『「言語論的転回linguistic truth」以降の社会科学はどれも、「客観的事実」とは何だろうか、という深刻な認識論的疑いから出発している。歴史学も例外ではない。歴史に「事実fact」も「真実truth」もない、ただ特定の視覚からの問題化による再構成された「現実reality」だけがある、という見方は、社会科学のなかではひとつの「共有の知」とされてきた。』この立場より、戦前から戦後へと続く「近代化プロジェクト」上での歴史の見方に再検討が加えられ、「ネオ連続説」が支持される。また「人権」というものが言葉の発生時には「人(男性と市民)」意外には与えられない物であったことや、女性史の「被害者史観」から「加害者史観」へのパラダイムシフト等が論じられる。その後戦前から戦後にかけて活躍したフェミニストの言説が分析され、初期のフェミニズム運動の「参加型」と「分離型」の違いと同種性が論じられた上で、どちらの立場も「女性の国民化」による罠に捉えられていると結論づけ、むしろ公領域のジェンダー分析による「女性」の解体、並びに「男性」の解体の必要が説かれる。第二部では従軍慰安婦問題が検討され、「戦時強姦」パラダイム、「売春」パラダイム等がその射程とよってたつ前提と状況の不適当さにおいて退けられる。「売春」パラダイムと対置されて論じられてきた「軍隊性奴隷制パラダイムも、被害者を立場によって分断する危険が示唆される。その他、多くの議論が検討されるが、ある意味この章の議論は、このような様々な議論からその一つを選抜し「真実」とすることは出来ない、換言すれば唯一のものであり誰も否定できない「真実」の存在を前提に歴史は考えることは出来ないと言うことである。『むしろ存在するのはさまざまな当事者によって経験された多元的な現実(=リアリティー)と、それが構成する「さまざまな歴史」であろう。』『歴史はいつでも複合的・多元的でありうる。ここではただひとつの「正史」という考えが放棄されなければならない。歴史の中で少数者、弱者、抑圧されたもの、見捨てられたものたち・・・・それがたったひとりであっても、「もうひとつの歴史」は書かれうる。』第三部では「新しい歴史教科書をつくる会」の言説をフェミニズムジェンダー史が積み上げてきた成果に対する重大な挑戦と捉えるところから、歴史の語れ方とその政治性について考察がなされる。まず「実証主義的(文書史料至上主義)」の欠陥が論じられ、その後過去を裁くことについての立場が述べられた後、オーラル・ヒストリーの試みが紹介され、その成果と危うさが述べられる。また「反省史reflexive hisutory」の概念が解説され、誰がどの立場で反省reflectするのかと言うことを考えながら、一国史national historyの内部にとどまる限り議論は広がることができないとする。議論は最終的に「国民国家」を超えた主体を構想し始めるのだが、そのなかで国民国家と個人を同一化することをナショナリズムと呼び、それがあたかも単一の人格を想定しうるような集団的主体であるという議論を否定する。これは枠組みとその構成員自体がアンダーソンの言う「想像されたもの」でしかないためである。ではどのように、「反省」の主体たる「わたしたち」という集団的同一性collective identityが構成されうるかと言うことが問われるが、上野は以下のように書く。『「わたし」を作り上げているのは、ジェンダーや、国籍、職業、地位、人種、文化、エスニシティなど、さまざまな関係性の集合である。「わたし」はそのどれからも逃げられないが、そのどれかひとつに還元されることもない。「わたし」が拒絶するのは、単一のカテゴリーの特権化や本質化である。』つまりここでは、国籍というカテゴリーで「わたしたち」がくくられることが、決して当たり前の事ではないと主張される。示されるエピソードの一つが興味深い。日本の若者が韓国を訪れ、「慰安婦」にさせられた女性の経験を聞いたとき、一人の日本の若者が突然立ち上がり、号泣しながら謝罪したというものだ。上野は言う。『おそらくは「純粋な善意」から発したに違いないこの若者のナイーブな反応をめぐる「感動的な挿話」は、国家と自分とをこれほどまでに簡単に同一化する彼のナイーブさにおいて、わたしに恐怖を抱かせる。彼の感じたであろう「痛み」の表現は、国家との同一化以外の回路を見つけ出す必要がある。』この論述は非常に腑に落ちた。「国家」の行った過去に対する「国民の責任のあり方」ということは非常に長い間自分の中での疑問であったのだが、少なくとも上野のこの著作により整理され、問題の在処がはっきりとしてきた。貴重な体験をすることができた。