森達也「ドキュメンタリーは嘘をつく」

ドキュメンタリーは嘘をつく

ドキュメンタリーは嘘をつく

書店で目にしたときからこの本はいつか読まなければいけなくなると思ったが、ことのほかいろいろな本に目移りした結果、ずいぶんと買うまでに時間がかかってしまった。しかし、読み終えて思った。やはり読まねばいけなかった本だった。

重要なことはいろいろ書いてあると思うのだが、その一つに「公平中立」や「客観性」という言葉への、著者の持つ強い警戒感がある。これらの言葉を当たり前のこととして使うということは、実は何も判断せず、何も知ろうとせず、ただぼんやりとした感覚に動かされているということなのではないかと、著者は警告する。そのようなあり方の一つのアンチテーゼとしてのドキュメンタリーは、実際は創作されるものであり、そこで物語れる「事実」と「創作」の境目など無く、だからこそ作り手の悩みや思いが必要とされ、それが世界を理性的な方向へ導いてゆく、そのように著者は論じていると思う。この本の中で筆者は「報道」と「ドキュメンタリー」とは全く性格を異にするものだとし、主に「ドキュメンタリー」での事実のあり方を語るのだが、おそらくこれは「報道」でも同じような図式があるはずだと感じた。「事実」とは誰もが同じように手に取れるようにあるものではない。それがそうであってほしいあり方をそれぞれが願い、見いだしてゆく。それは決してだれかが与えてくれるわけでも無く、何らかの方向性を知らずに自分で与えている。この構造に無自覚になったとき、その「事実」への方向付けはたやすく操作され、また自分もその操作に荷担してゆくことになる。これは「報道(=情報)」と「ドキュメンタリー」においてどれだけ異なった構図を持つのか、よく読み取ることは出来なかったし、著者はこの境目はあまり無いと思っているのではとも感じた。著者は決してテレビを中心としたマスメディアのあり方に極端に批判的な訳ではない。ただ脱力している。その原因は、メディアをそのようにあらしめている一つの大きな要因が、テレビの前の人々の欲求にあるからである。このように、一つの物事は決して簡単な筋書きで語ることは出来ない。抜け出ることのない不毛な思考のようにも思えるのだが、この不毛さをしっかり悩まない限り、希望は見えてこない。そのような著者の思いを感じた。