石田衣良「波のうえの魔術師」

波のうえの魔術師

波のうえの魔術師

これも友人に勧められたもの。自分と違う趣味は、不思議に読書体験を相対化させて面白い。

基本的な構成は、大学出たてのフリーターが相場師にスカウトされることから始まる、ある種のシンデレラストーリーである。読みはじめの感じは、闇相場にまつわる破滅型犯罪小説かと思ったが、読み進めて浮くうちにどうも雰囲気がおかしい。劇的な悪者が出現しないし、相場師もあんまりぴりっとしない。扱う相場もバブル時代の銀行株と有る意味きわめて地味で身近なもので、トリッキーな展開がある訳でもない。中頃まで読み進んだときには、なんとなくこれがきわめてクラシックな「人情小説」であると感じ始め、最後まで読んでその思いは深まった。全体の構成としては不思議なもので、「人情小説」の所以たる、誰もが人間的で、それほど常軌を逸した人間が存在しない世界のなかで、ある種の大円団に突き進むため、犯罪小説的な鋭さは角を落とし、そのためだれが「悪」くて誰が「良」いのか、判然としなくなる。そのため、登場人物のそれぞれの立場が「脱価値化」され、きわめて相対的で「無教訓」的な雰囲気が生じる。それが、この作家の静かで穏やかな筆致と非常に合ってはいるのだが、一方でこの優れて現実的でない「シンデレラストーリー」的寓話の中で、いったい何が教訓だったのかと思わせるような、微妙な違和感が残った。

いろいろ書いたが、結局は結構面白く読んだ。この人はあからさまではないが、言葉の使い方が端正で好感を持った。でも、こういうクライムノベルにはおそらくあんまり向かないんだろうな。生々しいことを扱いたいのならば、この文体では村上春樹的な韜晦をしつつ何も語らない姿勢に間違えられてしまう。久間十義のような、地獄で浴衣を着ながら卓球を打つ人を描くような文体でないと、ぐっとこないんですよ。