菊地成孔、大谷能生:憂鬱と官能を教えた学校 上・下

ボストンにあるバークリー音楽院音楽理論、バークリーメソッドがどのように20世紀商業音楽に多大な影響を与えたのか、12回の講義で説明しようと試みたにもかかわらず、あまりの理論体系の複雑さに論理の基礎と展開を説明することにとどまってしまった講義録。


と書くと、なんだかものたりない内容のように思われるかも知れませんが、それがまったくそうでないところがもの凄い。音楽理論というものを体系づけようとするときに、必ず発生してしまう「ドグマ」的な視点と、それを批判的に眺めながらもその「ドグマ」をある種の「軸」としてとらえることの有効性、なおかつその有効性の力強さによって「バークリー・メソッド」の力強さを語り、とって返す刀でその軸の不安定性を明らかなものとしてしまう本書は、いちおう音楽好きの僕にとって、がつんと頭を殴られるような衝撃をもたらしたのです。


読み始めは大丈夫だったのです。音楽の始まりからバッハの平均律の発見、そこから200年をかっ飛ばして近代音楽からブルーズ、ジャズの体系の解説、そしてハイカルチャー、ストリート、そして商業音楽を俯瞰する議論は、とてもわかりやすく、こうやって音楽というものを論じることができるかと、極めて新鮮な感覚を味わうことができました。しかし、その後に、本書のタイトルの「憂鬱」の意味を痛感することになります。


本書は、上記のような議論を前提とした上で、バークリ・メソッドにのっとった音楽理論の説明をはじめます。それは、おそらく音楽を専門的に学んでいるひと、またはスコアやコードを知っている人ならば当たり前のはなしなのかもしれないけれど、僕にはまったくついてゆくことができないものです。途中までは、注釈に載せられたピアノ譜を惹きながらなんとかついて行っている気がしたのだけれど、それもある程度まで、その後はまったく気分でしか理解できなくなります。だって、こんな感じなんですよ。

これはもう典型的なマイナーなダイアトニックの中にあります。キーはGmなんだけど、GmってことはB♭ね。これでね、マイナー・ダイアトニックとセコンダリー・ドミナントと、メジャー・ダイアトニックと、全て混ざってます。えーとそれでは表はぱぱっと見て確認していただきたいんですけど、この中のどれがノン・ダイアトニックで、どこがダイアトニックかっていうことをわかるだけでもだいぶ違うわけです。メロディーは、Gのハーモニック・マイナー、こう動いてるんですけど[弾く]、つまり、えーと、これはなんの例で出したかっていうと、マイナーは意外といろんなもんがまじってくるって例ですね。

でもこれが面白く無いのかっていうと、そんなことはぜんぜんなくて、とっても面白い。我ながらそれが不思議で、理由を考えてみました。それはこういうことなのではないのかなあ。


ひとつには、「分析的」にあるひとつの事象を解析すること、そしてその限界と、それによって見えてくるまた違った世界を、筆者たちが繰り返し主張すること。この態度は、なんだかとっても共感できます。物事を説明しようとする論理は、例えば生態学的心理学のように、いくらでもあり得るのだけれど、それはある人から見れば無駄な作業にしか思えない。でも、そのように世界に「軸」を導入することによって、見えてくるものはいくらでもあると思う。それが絶対では無く「ドグマ」でしかない、という著者らの認識は、実は「ドグマティック」な世界から極めて自覚的に自分を位置づけるという点で、触発的なものがありました。


またもう一つ。これらの「ドグマティック」な議論が、実際の創作の場において利用されていると言うことを、著者らが赤裸々に明らかにしていることです。現象学しかり、生態学的心理学しかりだと思うのですが、世界を「説明」する議論は、実は意外と自由に行うことができる。しかし、作り出す理論として、さまざまな側面があるとは思いますが、「バークリ・メソッド」が実際に利用可能であること、そしてその側面から見た場合、極めて批判的なツールとして使用しうると言うことを明らかにしていると言うこと、このことは、音楽とはまったく異なる位相の世界にいる僕にも、極めて刺激的なものに思えました。


あともう一つ、これはどこまで僕が理解できているのかわからないのですが、「バークリ・メソッド」というものが、ある範囲の中においてではあるものの、「現象」を「記述」しようとする試みであることが、著者らによって力強く説明されている、ということがあります。これは研究をしていて常に思うのだけれど、現象は極めて具体的な事柄なのです。その具体性を、ある軸に沿って抽象化させてゆく、これが難しい。言うなれば「モデル化」なのですが、このプロセスで手を抜くと、とたんに的外れな分析が始まってしまう。そのような、抽象化の枠組みを作り出すことの困難さと、にも関わらずそのよな枠組みの有効性を、著者らは半ば自覚的に、そして半ば勢いで、なおかつ極めて簡明なことばでもって、語り出しているように思いました。


音楽に興味がない人には、あんまり楽しまないかもしれませんが、でも、本書のテンション自体が、極めて音楽的な、という表現が適切かはよくわからないのですが、インプロビゼーション的な暴力性を保っているように感じます。それをそれとして読むだけでも、本書の価値は充分にあると思います。とにかく、「憂鬱と官能」とはこういうことなのかと、思い知らされるものでした。