イアン・サンソム:蔵書まるごと消失事件 移動図書館貸出記録1

蔵書まるごと消失事件 (移動図書館貸出記録1) (創元推理文庫)

蔵書まるごと消失事件 (移動図書館貸出記録1) (創元推理文庫)

司書の職を得たため、ロンドンからはるばる北アイルランドまでやってきた主人公の青年イスラエル・アームストロングは、職場と思われた場所につくなり図書館閉鎖との看板に遭遇する。勢いよくロンドンに帰ろうとするイスラエルは、しかし策謀と巧みな言葉遣いをあやつる上司なる女性にいいくるめられ、移動図書館臨時雇用されることに。しかし、その「移動図書館」とは、ニワトリの糞だらけのおんぼろバスで、しかも一冊も蔵書が無いのであった。


全編に満ちた痛々しいまでの主人公に対する諧謔と、また極端なまでにステレオタイプ化された北アイルランド人への挑発的描写にいろどられた本書は、ふつうによめば決して心地よく読み通せるわけもなく、そのあまりにどす黒い語り口に嫌悪感を抱くことは間違いないと思われるのですが、これが不思議なことに読めば読むほど心地よく、ある種自虐的とも思えるその物語の進行にすっかりのめり込んでしまい、いくぶん厳しく揺れながらも目的地へしっかりと走るバスに乗ったような、賑やかに楽しい気分にさせられました。


さらりと目を通した限り諧謔と皮肉に満ちた本書は、しかしなにかそれ以上の深みを感じさせるものがあります。例えば名前に表れているように、主人公はユダヤ教徒で、ベジタリアンなのですがお酒はたしなみます。一方で彼が身を寄せる北アイルランド人の家族は、極端に信仰深くも肉食で、しかもお酒は決して飲むことがない。このような宗教的な転倒だけでも楽しめるのですが、筆者は悪のりともいえる、ステレオタイプを逆手に取ったはちゃめちゃな人物造形を繰り広げ、本書を決してたんなるスラップスティックコメディーに終わらせることはありません。


ではなにに終わったのかというとあまり答えが浮かばないのだけれども、少なくとも本読みを楽しませようとして様々な読書的ガジェットを埋め込んだ推理小説、というものだけではないことは確かなのでは無いでしょうか。確かに本書では様々な物語が言及されます。しかし、司書の資格を持つ主人公はそれほど文学的知識を持つわけでもなく、また彼が初めのうちは卑しんでたまらない「粗野」な北アイルランド人の青年は、豊かな学識を持つなど、なにかここでも価値観の転倒が見られます。本に対する蘊蓄は、その転倒を演出する脇役程度なのでは無いかなあ。


結局ここで語られているのは、ありきたりではありますが価値観の転倒、以外のなにものでもないように思います。主人公から見た荒涼とした世界、理解不能な行動様式をかたくなに守る理解不能な人々、理解不能な言語に理解不能な風習、これらは主人公が蔵書を探し出すという行為を継続するうちに少しずつ変容し(例えば主人公はだんだんとコーヒーよりも紅茶を好むようになります)、最後には思わぬ変貌をとげてゆきます。この、もともとは違った世界が、ある一点にて接点を持ち得るというすばらしさを、本を読む幸せと重ね合わせて描いたものだとすれば、著者の力量と想像力には脱帽せざるを得ません。


なんだかむやみに難しく考えてしまったような気もしますが、基本的にはさっと楽しく読み通せるすてきな一冊でした。続編が楽しみですが、このテンションがきちんと続けられるのか、多少不安でもあります。