門井慶喜:人形の部屋

人形の部屋 (ミステリ・フロンティア)

人形の部屋 (ミステリ・フロンティア)

旅行代理店に勤務していた主人公は、妻の仕事上の成功によって主夫となることを決意、娘のつばめちゃんと妻を支える日々に精を出す。そんな彼のもとに、元の上司や通りすがりのおじさん、隣に引っ越してきた夫妻などが次々と謎をもちこみ、それらを常軌を逸したペダントリでもって解決するはなし。


主人公はいたって平凡な人間であったとのことですが、旅行代理店に勤めるうちに膨大な知識を蓄え、主夫となったいまではまるで豆知識大学の先生のような講釈を日々垂れ流すという、娘にとってはとても耐え難い存在として本書では描かれます。これはきついなあ。僕が娘だったら家出しちゃうなあと思いながら読んでいたら、まさに娘が家出してしまうエピソードが最終話。相変わらずの門井氏の物語を紡ぎ出す技の妙に、またしてもしてやられた気分になりました。つまり、あいかわらずとても面白い。


門井氏は僕にとって鳥飼否宇氏や柳広司氏と同じく、新刊が出れば必ず購入し、その行き過ぎたペダントリーと、しかしそのいやらしさをまったく感じさせない文章に、つねに驚かされる作家であります。おそらく、近いうちに大ブレイクすることは間違いない、そんな予感を感じさせるのは、門井氏の文章の細やかさと力強さが最近の人とは思えないものがあるからです。読んでいて思うのは、門井氏はずいぶん近代文学、というか文語調の世界に対して意識的なのではないかなあ。言葉遣い、単語の並べ方、そして接続詞の選び方など、微妙なところではありますが、とても現代の作家とは思えない、ひじょうに思い入れを感じさせる丁寧さがあふれ出ているように思えます。


という、文章上の特徴は本作で初めて強く感じたのですが、それはそれとして、物語自体も相変わらずの確かさを感じさせます。まず、主夫である男性が様々な謎を解くという設定自体のダイナミックさにぐっと引き込まれましたが、彼の不必要なペダントリと、そしてそれが必ずしも事件を一直線に解決しないという、心憎いまでの物語にたいする作者の心遣いには、相変わらずの門井氏の作劇法に対する真摯な立ち向かい方を、強く感じさせるものがありました。


そして、ある意味「日常の謎」的な物語が展開される中で、最終話の「お子様ランチで晩酌を」の展開は、まさに意表をつかれるものがありました。これは簡単に言えばこども扱いされていると感じた娘が少しの勇気を持って家出して、慌てふためく主人公が必死で居場所を考えるというものなのですが、読んでいただければおわかりのとおり、この物語はもうちょっと広がりを持った、実は「あたりまえ」のことなのだけれど、視点を変えるとこんなにも難しい事柄なのかと考えさせられてしまう、そんな不思議な、そしてうっかり優しい気分にさせられてしまう、そんなすてきな一篇でした。


門井氏と言えば、精緻なロジックと確かな文章で、極めて上品で静かな物語を構築する作家、というイメージでしたが、本書はそのイメージを、良い意味で少し打ち壊し、そして広げるものでした。しかし、この知識量は尋常ではありません。これまで美術ミステリを中心として書かれてきたため、てっきりそっちの方面の専門家かと思っていましたが、まさか旅行代理店関係の知識やビスクドール、そしてお子様ランチの万国旗にまで造形が深いとは、びっくりです。また一人、こころから新刊を楽しみにできる作家に出会えることができたのは、間違いなく今年の読書的収穫の一つであったと思われます。