池澤夏樹:キップをなくして

いつもどおり遅くまで大学近辺で飲み明かし、終電で帰ってきて駅を出た瞬間、なにかいつもと違う不思議なあたたかさを感じました。もしかしたら、そろそろ冬も終わり、春が近づいているのかもしれない。そんな気分で、ふらふら家までの道のりを歩いてきました。それはともあれ、いつものように、読書の記録をつけるです。


自分が生まれた昭和51年の切手を集めることをとてもたいせつなこととしている主人公の少年は、今まで二、三度訪れたことがある有楽町の切手屋さんに切手を買いにゆくのだけれど、改札口でキップを無くしてしまったことに気がつきパニックに襲われる。そんなとき、大人びた少女が突如あらわれ、主人公を東京駅のある一室に連れて行く。そこには、キップをなくした子どもたちが「駅の子」として集い、勉強をしながら電車通学のこどもたちの手助けをするという「仕事」をしているらしい。自分も「駅の子」として生活しはじめた主人公は、不思議な仲間たちと不思議な日々を送り始める。


僕は昭和52年生まれで、早生まれなのでおそらく主人公と同じ学年だと思われます。そんでもって僕は小学校に電車通学していたため、本書で主人公たちが手助けするこどもたちの一人であったんだと思うと、なんだか懐かしい思いがこみ上げてきてしまいました。また、特に渋谷駅での駅員さんのキップを切る鋏の、あの打楽器にも似た美しい響きが、突如として響き渡ったような、不思議な感覚に襲われました。


電車というものは不思議なもので、どこまでもつながってゆくのだけれど、一方でそれは改札口までのはなしです。本書の「駅の子」たちは、電車は乗り放題なのだけれども、けっして改札口を出てはゆけない。そんな自由と束縛という、相反する要素でできたもの、それが電車なんだと、まず思わされました。その自由でいて不自由な環境に、「駅の子」としてさまざまなこどもたちが集まってきます。どう考えても家庭が上手くいっていないと思われる、自分をコントロールすることのできない男の子、学校にゆくのが嫌になってしまって、自分で定期を捨てて「駅の子」となった中学生、そして電車に轢かれて命を落としてしまったのだけれど、天国にゆく決心がつかず「駅の子」としてこの世にとどまる女の子。


本書は、様々なエピソードが差し挟まれるのだけれど、大きく見ればこの死んでしまった女の子がどのように救済されるか、そしてその過程のなかでどのようにその子に関わる子どもやおとなたちが救済されてゆくか、そんな話のように思えました。そのように感じたのは、もちろん本書を読み終わったあとなのだけれども、面白いことに全篇を通じて「死」のメタファーがちりばめられているように感じたのは、これは作者の意図したところではないかと思われます。


「駅の子」は、ほとんどの人にはなぜか見えません。そして、「駅の子」たちは子どもたちを助けるためには時間をとめることだってできてしまいます。そう思って読むと、「駅の子」とは、彼岸と此岸のあいだの、曰くいいがたい場所にすむ子たちなのでは、と感じさせられます。それが様々な出来事と経験を経て、普段の生活にもどっていったり、新たな世界へ旅立ってゆく。これは、とても厳しい環境にある子どもたちに対する、著者の哀惜を込めた救済の物語であり、同時にそのような子どもたちへの暖かいメッセージのようにも受け止めることができます。ここで語られている物語は、みんな、それでいいんだ、大丈夫なんだよ、という、著者なりの精一杯の表現に思えてなりません。そこが、僕にはとても嬉しかった、というとおかしいかもしれませんが、とにかく素敵に心が緩められるというか、大袈裟に言えば救いを感じることができる一冊でした。