冨田恭彦:科学哲学者柏木達彦の多忙な夏 科学がわかる哲学入門

科学哲学という分野の基礎から現代までの重要事項を、研究室に質問に来た物理学専攻の学生と科学哲学者柏木先生が、研究室でお茶を飲みながら話し合うというもの。

なんというか、この本の構成にまず共感を覚えます。議論を対話的に進めてゆくという、プラトン以来の形式も美しいのですが、それぞれの章の前に、登場人物の二人(柏木先生と学生の咲村)がその章について打ち合わせをおこなうという、メタな作りも面白い。また、柏木先生の春学期後半から夏休みにかけてのさまざまな仕事が、これがまた極めて具体的に描写され、現役の大学の先生が楽しみながら書いているさまがまざまざと思い描かれ、とても楽しめました。とくに、雑用に追われながら論文を書かなければいけないなんて、まさにいまのわたしの置かれている状況なのであります。

内容はと言うと、こんなことを書くと冨田先生に怒られそうですが、やっぱりなんでこんな簡単なことを難しく考えなければいけないのか、と思ってしまうところがありました。前半のパラダイム論は分かりやすくて良かったのだけれど、中盤あたりの認識論的な議論は、少し細かすぎるというか、これで議論がすっきりしたのか、確信が余り持てない展開のされかたです。やわらかくかみ砕きすぎたため、かえって難しくなったような気もしました。

だからといって、本書は結局のところ今の僕には本当に助けになりました。それは、本書の一番最後の、ローティの議論を知ることができたためです。詳しくは是非本書を購入して最後まで読んで欲しいのだけれども、ローティは科学の訂正不可能な基礎として「感覚与件の事実」と「分析的真理」の二つを挙げ、そのどちらにも確たる根拠が無いと議論します。また、何らかの基礎的な真理を求める立場を(おそらく冨田先生は)「基礎づけ主義」と呼び、これもまた是認できるものではないとします。ではどうすればよいのか。僕が本書から読み取った限りでは、やはり自分が正しいと思うことを信じつつも、それに対する反論に耳を傾け、また自分と異なった価値観に心を許すこと、それこそが「真理」に近づく唯一の方法だとされます。

なぜこれが僕にとってとてもためになったのかというと、これらのことはまさに自分の研究の方法論に直結するからにほかなりません。例えば障害者スタディーを例にとっても、障害当事者ではない自分が本当に「障害当事者」をわかることができるのか、また何らかの研究成果をひねりだしたとして、それをどのように伝えることができるのか。これらの僕にとっては技術的でもあり、根源的でもある疑問を、すこしは和らげてくれるのです。また、よくあることなのだけれども、「これは個人的な考えですが」とか、「これは人によって違うので私には断定できませんが」みたいな、僕からすれば考えることから逃避した指向に対する、一つの有力な処方箋になるなあと思いました。なるほど、科学哲学なわけです。