若竹七海:猫島ハウスの騒動

猫島ハウスの騒動 (光文社文庫)

猫島ハウスの騒動 (光文社文庫)

どこか江ノ島を思わせる架空の島「猫島」で起こる、殺人事件と台風騒動と三億円強奪事件の後始末と修学旅行の痴話げんかの話。

若竹七海という作家は、「コージーミステリ」と呼ばれながらもまったくコージーではない物語を描き出すので好きなのです。しかも、かなりの「イヤな話」と思わせながら、その実冗長性豊かというか、読み手の気持ちが入り込むすきまをいっぱい作ってくれる。そんな作劇法が、極めて天の邪鬼に見えてとても良い。

本作は、実際に再現してみれば、おそらく耳も目も鼻もふさぎたくなるような凄惨な場面が次々襲いかかるのだけれども、なぜかそのような気分にはさせない流れがあります。それは、おそらく全編を通じて語られる、猫という存在の高貴さ、尊さにあるような気がしてなりません。本書を読んで一番感じてしまうのは、筆者の猫好きの度合いの高さであります。

しかし、このような小説を読んでいると、「ミステリ」という形式に対するある種の疑問が浮かんできてしまう。なぜ、本書は「ミステリ」でなくてはいけないのか。そこには、「ミステリ」という形式が召喚する、一連の手続きがあります。それは前段にはじまり殺人事件が起こり、ある種の探偵が現れ事件が解決される。このような形式は、果たして本書に必要なのか?はたまた、そのような形式に則って小説を読む意味がどこにあるのだろうか?

でも、やっぱり本書のような素敵な作品を読むと、「形式」の持つ力強さと意味合いを感じざるを得ません。これは、「形式」という文法に則って語られる、一つの物語でしか無く、それ以外にはこのような物語は存在し得ないのではないか、と。まあ、ひらたくいえば、このハチャメチャさとは、「ミステリ」という枠を突き破る、その瞬間に発揮されるのではないかなあ。しかもその中心なるメッセージは、猫ほど偉大な存在は無いということしか考えられない。こんな馬鹿馬鹿しいメッセージを発信できるのは、やっぱり「ミステリ」しかないのではないかな。