仲正昌樹:集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか

おもしろかった!久しぶりにほぼすべての頁に線を引きながらの読書でした。しかも勢いよく二回読んでしまった。
これはありていに言えば、「現代思想」というものが、今に至るまでどのような軌跡を描き、また現在どのような状況にあるのかをまとめたものなのですが、とにかくわかりやすいのです。

建築という分野は、ひとに高額なものを売りつけるという職能のせいか、なにか理屈っぽく難しいことを言ったり書いたりする人が多いので、ぼくも学生時代の頃はいろいろ頑張って読みました。そのころ流行っていたのは、田中純先生や松浦寿輝先生、建築で言えばまだまだ磯崎新氏がばりばりものを書き、原広司先生や山本理顕先生が難しい文章を書いていました。サークルでは文系の友人や先輩やらが、ポストモダン構造主義やカルチュラルスタディーズについて、それこそ呪文と禅問答のような会話をしているのに恐れおののき、ソシュールの「一般言語学講義」やレヴィ・ストロースの「悲しき亜熱帯」などを読んでみたものの、さっぱりわからずなぜかむかむか腹が立ってくるという不思議な現象に悩まされました。

本書は、おそらくぼくたちが大学生時代に陥った、悪い冗談のような自家中毒的症状を、解毒するようなものでした。内容的には、いわゆる日本での「左翼」の不自然な成立過程をきっかけに、戦後のマルクス主義の直面した困難とそれに相対する思想としての西欧のポストモダン、なおかつその状況があまり理解されずに日本に輸入された際の「思想」の展開と衰退を解説しています。これらの議論の切り分け方もわかりやすいが、まずもってことばづかいがとてもわかりやすい。ソシュールの「一般言語学講義」を眺めていて、いったいこれは何語なのか、非常に不思議な感覚に襲われたことはいまでも忘れがたい経験ですが、本書は「考える」ということにおけることばの大切さを、地の文で主張しているように思えます。

で、この本を読んで結局の感想は、あんまり考えすぎると結局どうにもならなくなって、不毛な堂々巡りに至ってしまうのではないかな、ということです。なんというか、この人たちはいったい何のために、こんなことを考えているのだろうかと、とても不思議になってしまう。この本の良いところは、さまざまな「思想」の世界の登場人物たちを、著者は多分に皮肉ったというか、冷ややかなまなざしで見つめながら語るのだけれど、それでも「思想」というものの力強さを信じていると伺わせるところです。例えば、最後の方にはこんなことが書いてあります。
「しかし、「ミクロな差異」に目を向けたデリダドゥルーズフーコーを否定して、“大きな物語的対立図式”だけを追いかけようとすれば、余計に“真実”から遠去けられ幻想にはまっていく。ポストモダン的に複雑化しつつある現状分析の道具としては、「現代思想」は今でも、というよりは、今こそ、有効であるーと少なくとも私は思っている。」
「私自身にも、こうした混迷した状況にあって、どういう方向に「現代思想」を発展・継承していったらいいのかよくわからないし、「安易にわかるべきでもない」とも思っているが、一つだけ“はっきり”言えることは、「マルクス主義のような包括的な理論(=大きな物語)を構築することが不可能になったからといって、社会を分析する道具としての「思想」がただちに不要になるわけではない」ということだ。」
マルクスを復活させたいのであれば、「共産党宣言」などの文面に表れた、彼の表面的な勇ましさだけをいたずらに模倣するのではなく、自分自身のそれを含めて、あらゆる常識を疑わざるを得なかった、深い懐疑のまなざしを学ぶべきだろう。それこそが、マルクスをリサイクルすることである。」
引用が長くなってしまいましたが、このわかりやすく訴えかける文章の良さが、少しでも伝わればと思います。

ところで本書はずいぶんまえに出版されていたのは知っていたのだけれど、「いまや右も左もバカばかり!論壇の迷走の原因を80年代思想ブームに探る、著者渾身の書き下ろし」という、品もなければ内容とも整合していない帯の文章に読む気を無くし、今に至るまで開いても見ませんでした。こういう的外れな帯は、ほんとうにやめてもらいたいものです。

集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか (NHKブックス)

集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか (NHKブックス)