ボリス・アクーニン「リヴァイアサン号殺人事件 ファンドーリンの捜査ファイル」

リヴァイアサン号殺人事件―ファンドーリンの捜査ファイル

リヴァイアサン号殺人事件―ファンドーリンの捜査ファイル

パリで有名なコレクターとその家の使用人達10人ほどが惨殺され、黄金のシヴァ神像が強奪されるという事件が発生、その犯人を追いかけるフランス人警部は、様々な理由により豪華客船に乗り込むことになる。そこで警部は数人の男女に犯人との目星をつけ、ともに食事をしながら追いつめるのだが、そこには謎めいたロシア人青年や不思議な言動をとる日本人、挙動不審なフランス人の貴族など、一筋縄ではいかない人々が集い、文化的・社会的衝突の中、事態は混迷の度を深め続ける。

ロシア人作家と言えば、思い出すのはドストエフスキーとソルジェニーチェンくらい、前者は「カラマーゾフの兄弟」を読んでとても面白かったのだが気分が悪くなり、続けて「白痴」を手にとってあまりにつまらなくて挫折した。後者は「収容所群島」を数頁読んであきらめた。つまり、イメージとしては重厚長大、極めて内面的な記述が多く、ある種の異常さを感じさせる、とても気軽に手に取ることはできない、というものである。しかし日経新聞の宣伝にこの本を見つけた時、ロシアの現代作家が推理小説を書き、それが岩波で出版されるということに大変興味を覚え、早速書店で購入した。結果として、上記のイメージはある種の文化的偏見であったと深く感じたくらい、本書は軽く読みやすい上に、皮肉な諧謔に富んだ、極めて批評的でもあり現代的なものでした。まず、語り口が面白い。主要な5人の登場人物が、それぞれの視点(といっても日記調であったり手紙であったり、ある種の3人称的表現が感じられる視点など、さまざまな視点なのだが)で起こりつつあることを記述して行く。そしてその語りのリレーが3回繰り返されて物語は終結する。面白いことに、本書の主人公はファンドーリンというロシア人青年なのだが、彼の視点から物語は語られることは一度として無く、それぞれの視点から見た彼の行動が記述されて行く。事件自体は、なんとも大時代的というか、古典的な雰囲気を感じさせるものなのだが、おそらくこれは作者の狙いであろう。この古めかしい枠組みの中に、なんとも批評的で現代的でもある、それぞれの登場人物の呟きが展開されて行く。登場人物それぞれの偏見は、オリエンタリズムが醸成されていた当時の雰囲気を伝えるような強烈なものなのだが、それが現代作家によって書かれていると言うところが、本書の解釈をトリッキーなものにしている。例えば、ここで描かれる日本人青年は、アングロサクソンの目から見た日本人の典型を強烈に皮肉ったものではあるが、一方でそれでも人種的差異を戯画的に大げさに表現してもいるのである。しかも、日本文学を専攻し日本に留学経験もあり、アクーニンの筆名は「悪人」からインスパイアされた筆者のことだから、それくらいは意図的に行っているとみてまず間違いはない。おそらくここで描かれているのは、文化の相互理解という試みの中にも、それでも存在してしまう偏見とステレオタイプの罠に対する、自嘲的とも言える告発なのだろう。いずれにせよ、物語自体はとても面白かったです。笠井潔氏の初期の作品の暗さを諧謔に置き換えたような、重厚で濃密ながら軽やかに読み進むことのできる小説でした。

ところで本書を買った直後にY兄と話をする機会があり、こんな面白い本を見つけたと見せたところ、彼はおもむろに本棚から一冊の本を取り出し、「romshanp君、それは翻訳されたシリーズの2冊目であり、僕は図書館で見つけたシリーズ1冊目を読んでいる」とのたまった。同病相憐れむ、もとい、本好きの考えることはよく似ていると、しみじみ思ったのである。