閑話休題:不思議なこと

いつも不思議に思う。

「個人的には〜と思うんですけど」とか、「これは個人的な意見なんですが」っていうことば。いかなる思いも、自分の気持ちに根ざしたものでは無いのだろうか。それは、必然的に「個人的」なものでしか無いように思える。そもそも、「個人的」以外の見解ってなんだ。妥当性と信頼性を備えた見解なのであれば、それなりの基準を満たす必要があるけど、そんなことを考える人もいないよね。ぼくには、おそらく無意識にみんなが当たり前と思うことが、わからないんだろうなあ。

「空気読む」の「空気」がわからない。もちろん、そのことばの指し示す意味は想像ができる。できるだけ肯定的に考えると、おそらくみんながあたりまえと思ったり、疑問を差し挟むことが「非常識」であったり、ときには「非道徳」的に思えるような事柄のことを「空気」と呼ぶのだろう。またもう少し日常的に考えると、その場の流れというか、大多数の人が「こうだ」ということが「空気」なんだろう。でもね、それって危険だと思う。自分の経験に根ざした判断基準を、放棄することにはならないのだろうか。しらぬまに、少数の人々を迫害したり、見なかったことにしてしまうのでは無いだろうか。だから、ぼくは「空気」は読みません。そして「空気は読むな、ぶちこわせ!」と叫ぶ。

「社会人」ってことば。これはつまり、世帯主として、どこかから給与を受け取り、独立家計を営むひとのことを指し示すのだと思う。でも、それが「社会人」なのかなあ。ぼくは会社勤めをしているあいだ、多くの「反社会」的な「社会人」に出会った。また、大学で扶養者として学ぶ人のなかには、生活費から学費まですべて自分で稼いだり、社会に対してとても真摯に関わる人々もいる。おそらく、「社会」に生きると言うことは、自分で自分の生活費を稼ぐ、ということ「だけ」では無いのでは、と感じている。ある意味、「社会」に生きるという意味では、親のお金で暮らし学ぶ学生だって、ちゃんと「社会」に生きる人たちなんだから。実は、選挙に行くことだったり、世の中を少しでも良くするために学ぶことだったり、そういうことが「社会」に生きること、すなわち「社会人」なのではないかなあ。