七河迦南:空耳の森

空耳の森 (ミステリ・フロンティア)

空耳の森 (ミステリ・フロンティア)

「七海学園」シリーズの著者による初短編集。春の登山で思わぬ吹雪に襲われた二人の男女の切ないやり取りを描いた「冷たいホットライン」、間違いなく孤島ではないどこかなのだけれども孤島と信じながら「漂流」生活をサバイブする幼い姉弟を描いた「アイランド」、高校卒業後に普通の職場からキャバクラのボーイに転職したクールで聡明な男の子と彼を見守る女たちを描いた「It's only love」、県の福祉局のボランティアページに寄せられたどうやら親の離別で悩み苦しむ姉妹のメッセージにまつわる「悲しみの子」、札付きの不良少女リコとその親友でこれまたブチぎれると恐ろしいと噂される少女のカイエが幼なじみの男の子マサトと久しぶりに出会うことからはじまる切ない探偵談「シンデレラ」、リコとカイエが遭遇してしまった壮絶な恋愛バトル「桜前線」、行きつけの飲み屋で出会った不思議な女性が語り手の男性の謎を解決する「晴れたらいいな、あるいは9時だと遅すぎる(かもしれない)」、束縛的な母と「娘」の対決を描く「発音されないH」。そして七海学園に暮らす少女がふとしたことで耳にした(と信じる)謎のメッセージにまつわる表題作「空耳の森」の、計9編収録。本著者の他の作品を読んでいなくても、十分楽しめる安心設計です。


実は僕が七河氏の作品を読んだのは、本書が初めてでした。それは「七つの海」や「アルバトロス」の評判も良く存じ上げていたのですが、前にも描いたとおり「児童養護施設」を舞台にしているところがちと気になって、手が伸びずにいたのです。でも、本書は一連のシリーズとは直接は関係していないらしく、また冒頭作の「冷たいホットライン」をぱらぱらと立ち読みしてみたら文章の美しさと切れの良さにすっかり魅了され、とりあえず読んでみたのが本書でした。そんでもって、いままで氏の著作を読んでこなかったことをずいぶんと後悔したものです。それなりに新刊には眼を通し、評判の良い作品は読んできたつもりですが、それでも素敵な作品を見逃すこともあるなあと、ある種の反省をしてしまいました。


初読時にいちばん印象に残ったエピソードはと思い起こしてみると、割とすべてのエピソードが印象に残ってしまったのですが、それでもあえて挙げると「アイランド」「It's only love」「シンデレラ」「桜前線」でしょうか。「アイランド」は、どこかにしかけがあることははじめから明らかなのだけれど、終盤までわからず終盤にあっ、と思わせる構成の妙が素敵でしたり、「It's only love」はキャバクラでまじめに、そしてスタッフに頼りにされながら明るく働く少年の描写と、彼を外側から心配するひとびとの重いの交錯に胸を打たれながら読み進んだ末の驚愕の展開に、こちらも「むむむ」とうならされました。「シンデレラ」「桜前線」はリコとカイエという、置かれた境遇の厳しさをはねのけるためにエネルギーを爆発させるふたりの少女を描き、なにか桜庭一樹氏の一連の小説を感じさせる、基本的には切なくて破滅的ながら、少女たちの力強さと爽快を感じさせる物語です。


その後上述のとおり「七つの海」や「アルバトロス」を読んで深く感銘を受け、その勢いで本書も再読したわけです。これがまた、驚きの経験でした。本書は、これだけでも一つの短編集として充分成立していますが、そのなかでもいくつかの作品は相互に関連性があることがうかがえます。「シンデレラ」や「桜前線」はあからさまに登場人物が重複していますし、「冷たいホットライン」と「晴れたらいいな、あるいは9時だと遅すぎる(かもしれない)」も、よく読めばおそらく関連している作品だと思わせられます。しかし、「七つの海」と「アルバトロス」を読むと、なんとすべての作品が一つの物語世界の中に成立し、もう一つの大きな物語がいきなり立ち上がるのです。これは、まあ驚いた。


それだけであれば単なる技術的な問題で、それ自身がなにか作品の質には関係しないと思うのですが、本書の場合は実にさりげなく(といっても前作を読んでから読むとわりとあからさまでもあるのですが)細やかな伏線が埋め込まれ、それによって本書のみならず「七つの海」や「アルバトロス」の世界までが、遡及的に新たな、そして深みのある世界に見えてくるという、ひとつの物語でここまで世界が豊かになるのかと思わざるを得ない見事な構成です。特に、初読では「?」と思う箇所がいくつか見られたものの「日常の謎」として充分に成立しているエピソード「空耳の森」が、なぜ本書の表題作と位置づけられているのか、その理由に(推測ではありますが)思い当たったときには、背筋が震えるような、あまり他の作品では感じたことの無い、曰く言いがたい喜びを感じてしまいました。


リカとカイエの成長物語もとても素敵なのですが、それ自体が大きな物語の世界に位置づけられるという構成、また子供たちだけで無く母親の再生の物語なのでは無いかと思われるリカの母親の描写、そしてなにより「あのひと」の姿がおおきな希望を持って描かれるところも、言いようも無くしみじみ良い。著者には、じっくりゆっくり、この物語をつむぎ続けてもらいたいものです。